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点灯夫の話(第三話)――「教養」の来た道(213) 天野雅郎

目下、夏目漱石(なつめ・そうせき)の『道楽と職業』(明治四十四年→1911年)という講演を、君が簡単に、お手軽に読みたい(聴きたい?)のであれば、おそらく岩波文庫の『漱石文芸論集』(1986年)か、ちくま学芸文庫の『社会と自分(漱石自選講演集)』(2014年)あたりが一番、入手は容易なのではないか知らん、と僕は思うけれども、これ以外にも例えば、講談社学術文庫の『私の個人主義』(1978年)や、あるいは朝日文庫の『ジャーナリスト漱石・発言集』(2007年)にも、この講演は収められているし、僕自身は遺憾ながら、未見であるが、今年になってから――多分、漱石没後百年を記念して刊行されたのであろう、角川新書の『夏目漱石、現代を語る(漱石社会評論集)』(2016年)と言った所が、いわゆるラインアップ(lineup)の候補と称しうるのではあるまいか。

もちろん、それを遡って、君が直接、岩波書店版の『漱石全集』や、ちくま文庫版の『夏目漱石全集』に手を伸ばしてくれるのであれば、それは僕にとって、とても嬉しいことであるけれども......まあ、あまり無理をして、背伸びをする必要はない、と言えば言える。なぜなら、そうそう容易に君や僕が、夏目漱石を読み、その全貌を知ることは不可能であり、出来ない相談であって、ゆっくり時間を掛けて、じわりじわりと『漱石全集』と付き合えば、それで充分であったからである。むしろ、それよりも先刻の朝日文庫の表紙にも使われている、谷口ジローの描く漫画(『「坊っちゃん」の時代』)を入口にして、君が夏目漱石の生きていた「時代」に思いを馳せることも、いたって重要なことであったのではなかろうか。新装版(2014年、双葉社)も出て、読み易くなったことではあるしね。

ちなみに、これまた漱石没後百年の一企画であろうが、どうやらテレビ(NHK総合)では『夏目漱石の妻』という番組も、今年の9月(24日)から10月(15日)まで、4回に亘って放送されていたらしく、幸か不幸かテレビを見ることの出来ない我が家では、その原案となっている、夏目鏡子(なつめ・きょうこ)の『漱石の思ひ出』を繙(ひもと)くことが叶うのみである。もちろん、この本自体は彼女(夏目鏡子→『夏目漱石の妻』)の存命中に、娘婿(むすめむこ)であり、長女の夏目筆子(なつめ・ふでこ)の夫であった、松岡譲(まつおか・ゆづる)が筆録したものであるから、もともと昭和三年(1928年)に改造社から出版されたのが最初であったけれども、現在、この『漱石の思ひ出』も簡単に、お手軽に文庫本(1994年、文春文庫)で購入することが出来るので、何とも有り難い。

ところで、その『漱石の思ひ出』の中にも、このブログにおいて前々回以降、僕が君に話を聴いて貰(もら)っている、例の「朝日講演」のことは述べられていて、その一節を先刻来、僕は読み直しているのであるが、そこには次のごとき、興味深い回想が含まれているので、ご一読を。――「病状は案じたほどの大事でもありませんでしたが、なにしろ去年苦い経験をしていますので、始めは流動物ばかりあてがって大事をとりました。そのころ「大阪朝日」の社員でした長谷川如是閑(はせがわ・にょぜかん)さんなどが〔、〕お見舞いにおいでになって、どうも夏目君は不養生だ、この間〔、〕和歌ノ浦で飯鮹(いいだこ)をしきりにたべるから、そんな不消化ものをたべてだいじょうぶですかと心配して注意してあげても、だいじょうぶだといってはしきりに喰べるんだから〔後略〕」。

と、このようにして僕は、今から105年前に夏目漱石が、大阪朝日新聞社の主催する講演旅行で和歌山に来て、和歌浦で泊まり、その夜に「飯鮹」を鱈腹(たらふく)――と表現するべきでは、ないのであろうけれども、なぜか「鱈腹」と書きたい気分になったので......書いておくが、ともかく長谷川如是閑に言わせれば、それが原因となって持病の胃潰瘍を悪化させ、とうとう入院するにまで至った事態を振り返っている。とは言っても、そのこと自体を漱石本人は否定して、当時、彼が大阪の東区にあり、何と日本で最初の「ノーベル賞」(物理学賞)の受賞者であった、あの湯川秀樹(ゆかわ・ひでき)の妻の実家である、湯川胃腸病院のベッドの上に「寝ながら、ナーニ、飯鮹のせいじゃないよと抗議を申し込んで」いたことが、先刻の『漱石の思ひ出』の続きには述べられている次第。

もっとも、飯鮹(いひだこ=飯蛸)それ自体は結果的に、俳句の季語(season word)になっている点からも、はっきり窺えるように、そもそも春が旬(シュン→漢音、呉音→ジュン)であって、この時期に「卵をもっているものを煮ると、胴に飯粒〔めしつぶ〕が詰まっているようにみえるので〔、〕この名がある」のは恒例の、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の語釈の通りである。と言うことは、このようにして「肉、卵ともに美味」であり、通常は「生食のほか、佃煮、干し蛸にする」(同上)はずの飯鮹を、はたして夏目漱石は和歌浦で、どのような調理法で舌鼓を打ったのであろう。なにしろ、彼が単に俳句の季題と言う以上に、きっと大の「飯鮹」好きに違いなかったことは、彼が遺した、以下のごとき「飯鮹」の俳句からも、よく事情が、伝わってくるからである。

 

 飯鮹の 頭に兵と 吹矢〔ふきや〕かな

 蟹〔かに〕に負けて 飯鮹の足 五本なり

 飯蛸の 一かたまりや 皿の藍〔あゐ〕

 飯蛸や 膳〔ぜん〕の前なる 三保の松

 飯蛸と 侮〔あなど〕りそ足は 八つあるを

 

さて、このようにして漱石自身は、みずからの胃潰瘍の原因を「飯鮹」に擦(なす)り付け、転嫁することなく、毅然(?)とした態度で入院生活を送り、約一月後、大阪から東京への帰途に就く訳であるが、このような辺りが彼の講演を「いたるところ女学生に大持て」(『漱石の思ひ出』)にした理由でもあったのではないか知らん、と僕は感じているけれども、さて君は、いかがであろう。事実、先刻の長谷川如是閑が当時を回想し、昭和十二年(1937年)に岩波書店版の『漱石全集』の月報用に書いた文章も遺されていて、それは文字どおりに「始めて聞いた漱石の講演」と題されているのであるが、それに従えば大阪で、実に2000人(!)もの聴衆を前にして、しかも「超満員で演壇にまで聴衆を座らせる騒ぎ」となった会場で、すっくと漱石自身は立ち上がり、喋り始めたのである。

 

漱石は、ざわついた会場の空気に応じた、言葉とジェスチュア―とで〔、〕先ず聴衆の心理を捉えて置いて、徐(おもむ)ろに話をすすめて行ったが、私の最も驚いたのは、大劇場で世話物〔せわもの〕を演ずる俳優のように、通常の会話風の言葉を大声で語り得る技術だった。これは今日でも〔、〕まだ新劇の連中などには充分〔、〕出来ているといわれないほど修練を要するものだが、漱石は〔、〕あの座談風の言葉を二千人もの聴衆で埋めている会場に行き亙〔わた〕るように発声することが出来るのである。これには全く驚かされた。

 

残念ながら、この講演自体を長谷川如是閑は、誤って『創作家の態度』と記しているのであるが、これは言うまでもなく、あの『文藝と道徳』のことであり、前者(『創作家の態度』)の方は三年前(明治四十一年→1908年)に、すでに東京で催されている。なお、この講演も前掲の『社会と自分』には全文が、また『漱石文芸論集』には抄録が、それぞれ載せられているから、ぜひ一度、君も目を通して貰えると幸いである。......と言った辺りで、そろそろ今回の紙幅も尽きてきた模様。そこで、次回への橋渡しを兼ね、そもそも夏目漱石が講演者(lecturer)として、何が、どのように優れていたのかを、先刻の「始めて聞いた漱石の講演」の末尾から引いておきたい。なお、この一文も今年の、漱石没後百年を記念して刊行された、岩波文庫の『漱石追想』に収められているから有り難い。

 

相当むずかしい問題を通俗に崩〔くず〕して話す手際〔てぎわ〕に至っては〔中略〕羨〔うらや〕ましいと思って見た処〔ところ〕で始(はじま)らないが、全く羨ましいと思った。その時分の大阪の聴衆には馴染〔なじみ〕のない内容だったろうが、彼等は多分〔、〕始めて文学及び文学者というものについて、珍〔めず〕らしい、面白〔おもし〕ろい、彼等にも充分〔、〕呑み込まれる、そうして親〔したし〕まれる話を聞いたと感じたであろうと私は思った。それほど聴衆の嬉〔う〕れしがったことが私共〔ども〕にも解〔わか〕ったのである。

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