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点灯夫の話(第四話)――「教養」の来た道(214) 天野雅郎

最近、仕事(しごと)という日本語のことを、あれこれ考える機会が多い。もちろん、このブログ(blog→weblog→網状談話......^^;)に目下、連載中である「点灯夫の話」も、さかのぼれば前々回の、そのまた前回(第211回)に、たまたま僕が今は亡き、直木賞作家の連城三紀彦(れんじょう・みきひこ)の『瓦斯(ガス)灯』(1984年、講談社)という短編集を読んでいて、その表題作の「瓦斯灯」という作品に登場している「点灯夫」(ランプ・ライター)という仕事に、興味を持ったのが切っ掛けである。――このことは、その折にも君に、報告済みであるけれども、さらに記憶の糸を手繰(たぐ)り寄せると、そこには夏目漱石(なつめ・そうせき)が今から、ちょうど105年前(明治四十四年→1911年)に、あの『道楽と職業』という講演を明石で行なったことが、伏線となっている。

その点、むしろ「仕事」よりも「職業」(ショクギョウ)という語を、この場において使う方が、ひょっとすると好都合なのではないか知らん......という気が、しないではないが、こちらの「職業」は正真正銘の、純然たる中国語であり、その典拠に『日本国語大辞典』(2006年、小学館)も中国の史書で、いわゆる春秋時代(前770年~全403年)の歴史を書き記した『国語』(魯語→春秋外伝・左氏外伝)を挙げているから、その起源は頗(すこぶ)る古い。ちなみに、この語の用例に『日本国語大辞典』は、さらに夏目漱石の『吾輩は猫である』(明治三十八年→1905年)を連ねており、どうやら夏目漱石の話を続ける上では、この「職業」という語の使い勝手は甚だ好い、と感じられるのであるけれども、今回は特別に、もう一方の「仕事」の側に、こだわりを持っておくことにしたい。

と言ったのは、先刻、冒頭で述べておいたように、この語が反対に、折り紙つきの日本語であったからであり、ご参考までに『日本国語大辞典』の語釈を紹介しておくと、そこには最初に「仕事」(しごと)の「し」は「サ変動詞「する」の連用形から」という但し書きに続いて、いたって興味深い、以下の五つの語釈が並べられている。―― ①「すること。したこと。しなくてはならないこと。しわざ。また、からだを動かして働くこと。作業」②「それによって生計をたててゆくための職。職業。業務」③「事をかまえて、ふつうでない行動をおこすこと。また、悪事を働いたり〔、〕たくらんだりすること」④「針仕事。裁縫」⑤「力学で、ある物体に力を作用させ〔、〕その位置を移動させること。その量は力の大きさと動いた距離との積であらわされる。単位はエルグ、またはジュール」

なお、この後に『日本国語大辞典』は語誌という形で、この「仕事」という漢字表記の歴史についても触れている。それに従えば、この「仕事」という漢字表記は室町時代の国語辞典(『文明本節用集』)に、すでに登場済みであるけれども、いまだ江戸時代に至るまで、その表記には「為事」が併存しており、その状況から最終的に、前者(「仕事」)の方が生き残り、後者(「為事」)を駆逐するに至るのは明治時代以降のようである。ともかく、このようにして振り返ると、そもそも「仕事」であれ「為事」であれ、この「しごと」という日本語を日本人が使用するようになったのは、日本の歴史が古代から中世へと、大きく変貌を遂げていく頃の話であって、それが前掲の『日本国語大辞典』の、二番目の語釈の「職業」と重なり合うのは、中世という時代を経過しての出来事であった。

要するに、このようにして「しごと」という日本語の成立と、その語義の変遷を考える時、とても重要な転機(ターニング・ポイント)が、君や僕が目下、中世と称している時代には訪れ、そこで大きく、どうやら日本人の「しごと」に対する考え方は、違ったものになったようなのである。そして、そこには言うまでもなく、私たちの国に歴史上、はじめて貨幣経済(monetized economy)が浸透していく経緯が、複雑に絡まり合っており、それは端的に、今でも君や僕が「仕事」や「職業」と言えば、もっぱら「金(かね→訓読、音読→キン)儲け」や「銭(ぜに→訓読、音読→セン)儲け」という形で、とにかく金銭(money)を稼ぐことが「仕事」であり「職業」である......と一面的、かつ一方的に思い込んでいる、いたって根深い、強固な「仕事」観や「職業」観の始まりの時代でもある。

この点を、例えば目下、僕が膝の上に置いている、松田良一(まつだ・りょういち)の『日本のシゴトロジー』(1991年、東京書籍)の叙述を借りて、補っておくと、それまで日本人の基本的な生活手段であり、生産形態であった、農業から多様な職業が分化して、その結果、農民から広義の「職人」が誕生するに至るのは、古代の終わりの時期(すなわち、12世紀)のことであるらしい。実際、その証拠には従来、農業を意味していた「なりはひ(→なりわい)」(生業・家業)という語が、この頃、にわかに「生計を立てること」の全般を指し示すようになったり、これが中世の始まりの時期(すなわち、13世紀)になると、さらに多様な、いろいろな需要に応じた「みすぎ」(身過)や「よすぎ」(世過)や、あるいは「くちすぎ」(口過)の語が、登場することにもなったりする訳である。

ちなみに、この『日本のシゴトロジー』という本は、その副題に「近代職業文化史」と記されていることからも明らかなように、もっぱら話題の中心となっているのは近代の、明治時代以降の「職業」であり、その「シゴトロジー」(=仕事学)であったけれども、そこには今回の、このブログの内容に相応しい、次のような「序」が置かれているので、ご参照を。――「成人になれば、必ずといっていいほど〔、〕自分がだれであるかを証明するとき、住所と氏名のほかに職業を告げたり、書類に記入する機会に出会う。その時、「職業は?」と聞かれた時と、「仕事は?」と聞かれた場合とでは、多少〔、〕ニュアンスの違いがあることに気づく。前者の問いでは「会社員」で済みそうだが、後者では〔、〕その中身を問われているようで、営業とか事務とか答えてしまう場合が少なくない」。

おそらく、この『日本のシゴトロジー』の著者と同様、これまで君も繰り返し、自分の住所や氏名や、それこそ「職業」や「仕事」を......それが仮に、小学生でも中学生でも、高校生でも大学生でも、とにかく告知し、証明しなくてはならない、そのような社会の中に生きてきたであろうし、これからも生きていかざるをえないであろう。その意味において、君や僕は好むと好まざるとに拘らず、このような「職業」や「仕事」によって、どうやら自分の存在証明をした上で、そこから自分の存在理由を、この「職業」や「仕事」の中に、見出さざるををえないようなのである。でも、そうであるからと言って、その際の「職業」と「仕事」は『日本のシゴトロジー』の、この著者の言う通り、まったく同じものではないのではないか知らん、と僕も思うのであるが、さて君は、いかがであろう。

 

どうも仕事には、働くことと同時に「具体的な作業」の意があるようだ。ちなみに物理では、仕事は〔、〕ある物体に外力が働いて動き出したとき、その方向に動いた力と移動した距離の相乗積をいう。つまり、仕事は人間的な作業や働き、行為を意味している。そうした中のひとつとして〔、〕家族と自分の生計を維持してゆく仕事が生業(なりわい)であり、職業と呼ばれる。職業は人間的な働きの〔、〕ひとつの型である。〔改行〕そして〔、〕だれもが学校の卒業など節目のとき、その選択に悩み、また就職してからも転職すべきかどうか思い患〔わずら〕う。人は何か仕事をして食べてゆかねばならず、逃れられない悩みでもある。

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