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点灯夫の話(第五話)――「教養」の来た道(215) 天野雅郎

仕事(しごと)という日本語を、例えば英語(English→England→イングランド語)では何と言うのか知らん......と、あれこれ頭の中で思い浮かべてみると、やはり第一に、まず思い付くのは work と labor(と書くよりも、labour)である。けれども、この二つの語から受ける印象は、僕のように英語の勉強に、あまり精を出してこなかった人間にも歴然としている。そこで、ためしに手許の『英語語源辞典』(1997年、研究社)を引いてみると、どうやら前者(work)の方が「インド・ヨーロッパ語族」の祖語(すなわち、印欧祖語→Proto-Indo-European)に由来し、何かを「する」という程度の、はなはだ漠然とした意味しか持っていなかったのに対して、後者(labour→labor)の方はラテン語を起源とし、そこには最初から、困難や辛苦や疲弊という意味が、含まれていたことが分かる。

要するに、前者の方が結果的に、日本語の仕事(しごと→為事)には相応しく、その漢字表記も、ほとんど重なり合っているのに対して、後者の方は単純に、これを「労働」と置き換えた方が、その意味は通じやすく、通りやすい語であったことになる。とは言っても、この「労働」という語も現在のように、君や僕が苦労して、疲労困憊(=「心」労+「身」労)を繰り返しながら、毎日、毎日、働き続けているイメージを、この語が手に入れるようになるのは新しく、それほど昔の出来事では、なかったのであり――事実、例えば『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の挙げている「労働」の用例は、あの貝原益軒(かひばら・えきけん)の『養生訓』(正徳三年→1713年)であって、そこには「身体は日々〔、〕少〔すこし〕づつ労動すべし、久しく安座すべからず」と述べられている。

言い換えれば、このようにして江戸時代の前半には、いまだ「労働」は「労動」という漢字を宛がわれ、その意味も「からだを使って働くこと。また、からだの器官、機能などを働かせること。からだを動かすこと」(同上)を指し示し、そこには「労働」という語が目下、抱え込んでいるような......端的に言えば、否定的な意味や消極的な意味は、伴われていなかった訳であり、このような事態は『日本国語大辞典』の語誌に従えば、どうやら明治時代の中盤までは、ごく普通に続いていたようである。裏を返せば、それが単なる「労動」(=身体運動)から「労働」へと、その漢字表記の推移も含め、大きく変化を遂げるに至るのは、具体的には「明治三〇年頃から活動が盛んになった労働運動」を介してのことであり、言ってみれば、それは20世紀が産み出した事態であったことになる。

もっとも、そこには『日本国語大辞典』の指摘するように、いわゆる国字(コクジ)や和字(ワジ)という名で呼ばれている、日本人の作った、お手製の漢字(すなわち、和製漢字)の存在が、いたって大きな影響を及ぼしている、と見なさざるをえない。その意味において、そもそも君は「労働」という表記に用いられている、この「働」(音読→ドウ、訓読→はたらく・はたらき)という漢字が、それ自体、正真正銘の漢字ではなく、その名の通りの和製漢字であったことを、知っていたであろうか。そして、この和製漢字が姿を見せるのは、興味深いことに日本の中世の、古辞書類においてのことであり、この点からも君や僕は、この時期に日本人の、仕事観や職業観や、まさしく「労働」観に、それまでにない変化が起きたであろうことを、朧気(おぼろげ)ながらも推し測ることが叶う。

ちなみに、このような「はたらく」や「はたらき」という日本語は、すでに平安時代に登場済みであるけれども、これが昨今のように、そのまま「努力して事をする。精出して仕事をする。労働する」(同上)という意味を持つのは、鎌倉時代以降のことであり、その用例に『日本国語大辞典』が挙げているのは、あの鴨長明(かも・の・ながあきら、音読→チョウメイ)の『方丈記』(建暦二年→1212年)であった。そして、ここから次第に、この「はたらく」や「はたらき」という日本語は、例えば「戦場で活躍する。また、出撃する」とか、あるいは「精神などが〔、〕よく活動する」とか、さらには「能で、特定の意味を持つ、強く〔、〕はげしい動きをする」とか、いろいろ特殊な用法を手に入れるようになるのであるが、それも実は、すべて中世という時代を通じての出来事であった。

なお、この「はたらく」や「はたらき」という日本語を、古く「はたる」(徴)と結び付けて考える、はなはだ興味深い説がある。もともと江戸時代の国語辞典(『和訓栞』)や語源辞典(『名言通』)で述べられている説であるけれども、この場では白川静(しらかわ・しずか)の『字訓』(1987年、平凡社)から、その「はたる」の項を引いておくので、ご参照を。――「厳しく責め立てて、ものを取り立てる。租税や課役のことなどに関していう。租庸調(そようちょう)時代に用いられた特殊な時代語であった。〔中略〕「剝(はつ)る」と関係があるらしく、力ずくで責めとるという感じの語である。西郷信綱説に、「はたらく」とは「我と我が身をうながし骨折って事を成す」意であろうかという。身を「はたる」意である。人は古くから、そのようなはたらきかたをしたのであろう」。

さて、このようにして振り返ると、この「はたらく」や「はたらき」という日本語に、いわゆる和製漢字の「働」が宛がわれ、その上に、さらに「労」という漢字......こちらは正真正銘(?)の漢字が上乗せをされ、そこから産み出されることになった「労働」という表現(=漢字+和字)に対しても、それ相応の感慨は、催されざるをえないのではなかろうか。なぜなら、そもそも「労」という漢字は正しく書くと、本来は「勞」であったからであり、この場でも再度、白川静の『字統』(1984年、平凡社)の言い回しを借り受けると、まず庭に「かがり火」を焚き、これを「聖火」として「農耕のはじめと終りに、農具〔=耒→すき〕を清める儀礼が行なわれる。火を縈(めぐ)らして〔、〕これを祓(はら)うものは労、丹青の色をもって清めることを靜(静)という」と、記されている。

この点は、この「勞」(→労)という漢字を君や僕が、日本語として読む際にも引き継がれていて――とは言っても、この漢字を君が、ひょっとして訓読できない(......^^;)のであれば、それは元(もと)も子(こ)もない話であったけれども、この漢字は「つとめる」や「つかれる」という読み方をする以外に、実は「いたわる」や「ねぎらう」という読み方をする漢字であった。要するに、君や僕が今日という一日を、その名の通りの「労働」に費やし、それを「つとめる」ことによって「つかれる」ことが、仮に起きたとしても、その「労働」を君や僕は、今度は「いたわる」ことや「ねぎらう」ことの出来る、資格や権利を、手に入れたことにもなるのであり、そうであるからこそ、先刻の『字統』にも「勞」は、何よりも「神の恩寵を受ける意に用いるのが原義」と書かれていた次第。

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