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恐怖の哲学(第二回)――「教養」の来た道(221) 天野雅郎

恐怖という字を漢字(=中国文字)で書いて、これを「キョウフ」と読むのは、当然、中国語読みである。このような読み方を、私たちの国では音読み(もしくは、音読)と称するが、詳しく言うと、まず恐怖の恐の字を「キョウ」と発音するのは、いわゆる中国北方に起源を有する漢音であり、南方に起源を有する呉音であれば「ク」と発音していたのが本来である。ところが、もう一方の怖の字を「フ」と声に出すのは、今度は呉音であって、これを漢音で声に出すと「ホ」となるのが、そもそもの形である。と言うことは、この語が仮に、恒例の『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の用例に従って、古く『後漢書』を典拠とする語であるならば、この語が私たちの国に最初に伝わった時、この語を私たちは、どのような音で、どのような声の出し方で、口から発していたのであろうか。

と、このようにして昔々の、はるかな過去へと、思いを馳せるのは、今では専(もは→もっぱ)ら私たちが、この語を「キョウフ」と読み、それ以外の読み方など、まったく頭の中から綺麗(キレイ)さっぱり、抜け落ちてしまっている......そのような状況下では、いたって不分明な、不可解な問い掛けのように見えるであろうし、このような問い掛け自体が現在の、あまりにも画一的な学校教育の、言語学習においては、はなはだ宙に浮いた問い掛けのように映っても、それは致し方のない事態であったのかも知れないね。でも、この恐怖という字を「キョウフ」と発音するのか、それとも「クフ」や「クホ」や、あるいは「キョウホ」と発音するのかで、この漢字に対する印象は、ずいぶん異なったものになりうるのではないか知らん、と僕は考えるのであるが、さて君は、いかがであろう。

とは言っても、このようにして恐怖という字を「キョウフ」と読むのか、それとも「クフ」や「クホ」や、あるいは「キョウホ」と読むのかに、まったく依存せず、それ自体において自立しているのが、実は漢字(Chinese character→チャイニーズ・キャラクター)という文字に特有の性格であり、個性なのである。したがって、この恐怖という字にしても、そこに「工」(コウ→漢音、呉音→ク)や「布」(フ→呉音、漢音→ホ)や、それらを通じて、君や僕の心の中に産み出される印象と、そのイメージ(image=心象)さえ、はっきりとしているのであれば、それで構わない訳である。が、そのようなイメージを困ったことに、どうやら君や僕の心は具体的に、想い起こすことが叶わず、それらを想像する(imagine)ための想像力(imagination)も、欠いているのが実情であったけれども。

その意味において、君や僕が漢字と付き合う際の、その付き合い方が、とても難しい時代になってきたなあ、と僕は感じているけれども、それは下手をすると、これまで日本人が漢字を使い、文章を読んだり、書いたりしてきた――その歴史の全体が、どこかで崩壊(collapse→collapsus→「廃墟」化)の兆しを見せていることに通じているのではなかろうか、という不安と裏腹である。それどころか、そこには単に兆(きざ=気差)しではなく、もはや手の付けられない、手の施しようのない崩壊現象が、すでに着々と進行している、と評しても過言ではなく、そうであるとするならば、目下、君や僕が漢字と、どのような付き合い方をするのかは、それ自体が日本の社会や文化の、過去と現在と未来を包み込む、きわめて重要な局面へと、君や僕を立ち向かわせることにもなるから、ご用心。

なぜなら、もともと文字という媒体(medium→media)を一切、所有することのなかった(であろう......)私たちが、まず手に入れることの出来た、最初の「文字コミュニケーション」のツールが漢字であり、それ以降、私たちの国の社会や文化は、この外来文字を抜きにして、成り立つことはなかったし、そこから後世、新しく平仮名(ひらがな)や片仮名(カタカナ)という和字(=日本文字)が作られても、いつも和字は漢字と共に、その附属物か、あくまで二次的な役割を、その名の通りに「真名」(=漢字)と「仮名」(=和字)という差別表現にも甘んじて、延々と担(にな=荷)い続け、今に至るのである。実際、現在でも君や僕が、結果的に日本語を表記するために用いるのは、やはり一次的には漢字であり、決して平仮名や片仮名や、ましてやローマ字では、なかったのである。

ところで、このようにして漢字で、例えば恐怖と書いて、これを「キョウフ」と音読する以外にも、君や僕は日本語で、この恐怖という漢字を二つに分け、それぞれの字を「おそれる」(=動詞)とか「おそれ」(=名詞)とか、さらには「おそろしい」(=形容詞)とか「おそらく」(=副詞→おそらくは→おそるらくは)とか、いろいろ読み替えることが叶うのであるが、このような読み方が通称、訓読み(もしくは、訓読)と呼ばれている訳である。そして、そのような訓読みの周りには、僕が前回、君に伝えておいたような、いわゆる「こわい」や「えずい」や「おぞい」や、それどころか「きょーとい」や「いぶせー」と言った――このような言い回しと身近に、付き合ったことのない側には、はなはな奇妙な、文字どおりに聞いたことのない、いくつもの表現が存在しているのである。

幸い、と言おうか、何と言おうか、僕自身は前回、公言(カミング・アウト)をしておいたように、実は子供の時分から、この内の「こわい」と「おぞい」を「おそろしい」と並ぶ形で、くりかえし愛用してきたのであって、それどころか、きっと一番、頻用してきたのは「おぞい」であったに違いなく、この事実を『日本国語大辞典』を通じて想い起こし、再確認するに及んで、とても懐かしい感慨に包まれている所である。なにしろ、これらの語の内で僕自身が、それこそ「おそろしい」人や物や、出来事に遭遇した時、その恐怖を「おそろしや、おそろしや」と口に出すことは出来なくても、また、それに「こわ~い」(......^^;)と叫び声を上げることは、いくら何でも、憚(はばか)られるであろうけれども、これに「おぞ~」と脅(おび)えることは、いたって容易であるからである。

なお、この「おぞい」という語を『日本国語大辞典』で調べると、そこには何と、平安時代の『宇津保物語』や『源氏物語』の用例が挙げられていて、僕を結構、元気づけると共に、さらに「おずし」(→おぞし→おぞい)という形で、この語のルーツを遡ると、そこには『古事記』の用例までもが登場する始末。おまけに、この「おずし」の変化した語の一つが、どうやら「えずい」のようであるが、こちらは中世以降の語であるから、歴史の古いのは「おずし」から「おぞし」への、また「おぞい」への変化であったろう。ともかく、このようにして僕が幼少の頃から、何気なく口にしていた「おぞい」という語には、さらに「おぞましい」などの「派生形をともなって平安仮名文学に現われる、優勢で規範的な語形」が隠されていることになり、僕は今回も、またもや気分が好くなった次第。

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