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恐怖の哲学(第三回)――「教養」の来た道(222) 天野雅郎

前回、前々回と引き続いて、僕は君に七面倒臭い話を聴いて貰(もら)っている。――と、このように僕が言った時、仮に君が「七面倒臭い」という言い回しの意味を知っていて、それが非常に厄介(ヤッカイ)な、とても面倒臭い事態を指し示していることを踏まえつつ......そのまま、この「七面倒臭い」という語の前を素通りしてしまうのか、それとも、この語を例えば、僕のように『日本国語大辞典』(2006年、小学館)で引いて、そこから、この語の頭に冠せられている「七」が、実は単なる当て字に過ぎず、それは「形容詞や形容動詞の上に付いて、程度を強めるとともに、煩わしくて〔、〕いやだという気持を表わす」接頭語であることを、あらためて知り直すのか、この二つの行動の間にある違いを、ぜひとも僕は、君に理解し、それを君の実行に移して欲しいと願っている次第。

とは言っても、このようにして「七面倒臭い」という語の中で、その意味が幾分、明瞭になってきたのは、どうやら接頭語の「七」と、さらには接尾語の「臭い」のみであって、この二つの語の間に挟まれて、どっかりと、どっしりと鎮座(チンザ)している、ご本尊(ホンゾン)の「面倒」については、おそらく君も僕も、ふたたび辞書を調べない限り、その正体を見通すことは不可能ではなかろうか。と言う訳で、さっそく僕は『日本国語大辞典』を引き直しているのであるが、何と、そこには語誌という形で、この語の語源自体は、よく分かっておらず、通説では「中世以降」になってから、この語が「目だうな」という形で用いられ、それが目で「見るのも無駄、無益」という「原義」から、やがて「体裁の〔、〕わるいこと」や「見苦しいもの」を表現するに至る経緯が述べられている。

と言うことは、この語が「その後、撥音化して「メンドウナ」となって定着し、意味も変化して、語源が〔、〕わからなくなり、やがて「メンドウ」という発音に引かれて「面倒」という表記が〔、〕されるようになったものと思われる」と、さらに『日本国語大辞典』は書き継いでいるけれども――要するに、このようにして私たちの国で最大規模の国語辞典にしてからが、この語の成り立ちに関して、はっきり筋道を立てて、君や僕に説明してくれているのではない(!)という事実を、まず君や僕は弁(わきま)えておく必要がある。その意味において、この「面倒」という語も、それを強調した「面倒臭い」という言い回しも、また、それを極端に表現した「七面倒」も「七面倒臭い」も、実の所、君や僕には正体不明の、よく訳の分からない語であると見なした方が、無難なのである。

しかも、このようにして語源(etymology=真の語)の、よく掴(つか=束)み切れない語が、いったい『日本国語大辞典』の中には何語......それどころか、何十語も何百語も何千語も、ひょっとすると何万語も、そこには隠れ、潜んでいるのであるから、この事実は不安(anxiety=窒息)を通り越して、恐怖(fear=危険)以外の何物でもない、と僕は日頃、感じているけれども、さて君は、いかがであろう。そして、そのような「恐怖」は時として、僕に突然の「テロリズム」(terrorism→terror=脅迫)が勃発したかのような驚きを、与えざるをえなかったり、また「ホラー」(horror=身毛立)のような戦慄をも、しばしば僕に齎(もたら)し、それこそ僕の全身の、身の毛が弥立(よだ)つ状態へと、くりかえし僕を追い込んでいったりもするのであるが、はたして君は、大丈夫かな?

と言いながら、このようにして日頃、僕は辞書を引き、多い折には一日に何回も、何十回も何百回も――と言うのは、さすがに誇張に過ぎるであろうが、それでも日常的に数十回は、何度も何度も辞書を引き、言ってみれば、辞書と首丈(くびったけ→くびだけ)の付き合いを続けている。ちなみに、この「くびったけ」という語も面白い、はなはだ興味深い語であり、これまた『日本国語大辞典』の語誌には、この語が「近世前期から上方では「くびだけ」の形で用いられ、文字通り首までの長さを表わし、さらに「首丈沈む」「首丈嵌(は)まる」などの言い回しにも見られるように、この上なく物事が多く〔、〕つもる意、あるいは、深みに〔、〕はまる意から〔、〕異性に惚れ込む意で用いられた」と述べられていて、そのまま僕の「くびったけ」の姿態をも表現しており、愉快である。

言い換えれば、このようにして辞書と「くびったけ」の付き合いを続けることは、もともと僕にとっては不安や、それを通り越した恐怖から、産み出されている行為ではあっても、それは翻(ひるがえ)れば、同時に僕の安心や安堵や、それどころか、むしろ僕の愛情や愛着にまで、どこかで重なり合っている行為でもある訳である。したがって、僕が前回も、前々回も繰り返し、君に「こわい」や「おっかない」や、あるいは「おそろしい」や「おぞい」や、はたまた「えずい」や「きょーとい」や「いぶせー」という形で存在している、言ってみれば、日本語(すなわち、日本人)の恐怖の語彙(ヴォキャブラリー)とでも呼ぶべきものを紹介し、それらに拘泥しているのも、それは言うまでもなく、僕の遠く......深い過去へと、僕自身の錘鉛(スイエン)を下ろすための試みに他ならない。

もっとも、それは確かに僕自身の、きわめて個人的な思い出や、はるかな昔への想起(anamnesis=記憶)に、さしあたり繋がり、結び付く行為ではあるけれども、それが決して僕個人の、いたって私的な、限られた問い掛けであるとは、僕は考えていない。なにしろ、僕が先刻来、君に向かって、次から次へと「七面倒臭い」話をしている背景には、いつも君や僕が言葉(language=舌)を使い――それで話したり、聴いたり、読んだり、書いたりしている、とても日常的な、まるで茶飯事のごとき行為が控えているからであり、そのような茶飯事は君にとっても、僕にとっても、まったく同等の、対等の営みであったはずであるから。そして、そうである以上は、そのような茶飯事が君や僕の目に、なぜ「七面倒臭い」ものに映るのかを、君や僕は振り返ってみる必要があるのではなかろうか。

裏を返せば、そのような茶飯事が一見、お茶を飲んだり、ご飯を食べたりするような、ありふれた行為に、感じられなくなるのは、君や僕が逆に、その茶飯事に用いている、お茶の種類や銘柄に注目し、こだわったり......あるいは、ご飯の際の主食となる、文字どおりの米(→飯)や麦や、それを加工したパンや麺や、あるいは副食(すなわち、お数)である、魚や肉や野菜について、その産地や鮮度や、ひいては調理方法に至るまで、あれこれ気になって仕方がなくなった状態と、よく似ているのではなかろうか。でも、そのようにして茶飯事に、まさしく茶飯事として気を遣い、心を配り、例えば今日の晩御飯には何を、どのように調理し、工夫して、それを誰と、どのように食べようか知らん、と考えることは、通常、君や僕が幸福と称している、その当のものでも、ありえたに違いない。

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