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有吉佐和子論(拾遺)――「教養」の来た道(227) 天野雅郎

学生の時分に、お世話になった......とは言っても、厳密に言うと、それは僕が大学生の頃ではなく、もう大学院に進学してからのことであるけれども、僕は当時、まだ刊行されて間もない、磯田光一(いそだ・こういち)の『思想としての東京』(1978年、国文社)や『永井荷風』(1979年、講談社)を読んで、これが文芸評論の新しい形なのかと、ずいぶん新鮮な印象(impression=感動)を受けたことを覚えている。また、その印象は続けて、僕が母校の大学の助手(→助教)になってからも、さらに『鹿鳴館の系譜』(1983年、文藝春秋)や、まったく同年に出版された、新潮選書の『戦後史の空間』を通じて、いよいよ強固なものとなり、その結果、僕は1970年代と1980年代に活躍した、日本の文芸評論家の中で、いちばん信用していたのは磯田光一であった、と評しても過言ではない。

でも、このようにして一方的で、身勝手な関係を称して「お世話になった」と、はたして言い切ることは出来るのか知らん、と僕自身は何だか、気恥ずかしい気分に浸らざるをえないのであるが――振り返れば、そもそも人間関係(とりわけ、師弟関係)とは一方的な、身勝手なものでもあって、むしろ本当に、衣食住の生活面を含めて、うまく繋がり合うことの叶う関係は、ほとんど見出されないのが実情であろうから、例えば、着る服の趣味が合わないとか、飲む酒の好みが違うとか、住んでいる部屋の設(しつら)えや調度が気に入らないとか、このような間柄では到底、日常的な関係を上手く営むのは難しいのではなかろうか、と僕は思うけれども、さて君は、いかがであろう。ましてや、これが夫婦や親子や、いわゆる家族関係ともなれば、まったくもって言わずもがな......であろう。

と、このような話から口火を切ったのは、たまたま僕自身が目下、磯田光一の『昭和作家論集成』(1985年、新潮社)を膝の上に乗せて、その中に収められている「有吉佐和子論」(‶紀ノ川〟のゆくえ)のページをパラパラと捲(めく)り直しているからに、ほかならないが、この作家論は当初、この前年(昭和五十九年→1984年)の雑誌(『新潮』11月号)に掲載されたものであったから、それは同年の、有吉佐和子(ありよし・さわこ)の突然の逝去(8月30日)から、それほど時間を経ることなく、筆を起こされたものであったろうと推測される。ちなみに、それから三年後の昭和六十二年(1987年)の2月5日、今度は磯田光一自身が心筋梗塞で、これまた急死を遂げてしまうことになるのであって、その折のことを、あれやこれやと振り返りながら、僕は当時を想い起こしている次第。

ところで、この「有吉佐和子論」において、磯田光一が提示している視点の中で、僕自身が興味を惹かれるのは、まず当時の「文壇」が何故、稀代の「ストーリー・テラー」であった有吉佐和子に対して、概して冷淡な、無視にも等しい反応(reaction)しか示さなかったのであろう、という点である。この点について、磯田光一は志賀直哉(しが・なおや)の名を挙げながら、彼を「正系とあおぐ文壇」とか、その「リアリズムを正系とする文学風土」とか、言い換えているけれども、それは驚くべきことに、この1970年代の、ひいては1980年代の「文壇」に至っても、延々と引き継がれ、伝わっていた――言ってみれば、日本の「近代文学」に固有の土壌であり、そのような文学的伝統を踏まえて見れば、いかにも有吉佐和子は古臭い、明治時代の遺物のような作品を、書いていた訳である。

そして、そのような明治時代の遺物(remains=残留品)を、磯田光一は「硯友社的なものの系譜」と称しているけれども、そのような系譜(genealogy=血統書)を逆に、あえて引き継ぐことで、そこから有吉佐和子は「硯友社の戦後版」と見なされながらも、そのような遺物を読者の目の前に、あたかも異物のごとく、次から次へと提示し続ける才能を彼女は、そなえていたのであって、そのような彼女の「才女」ぶりに対して、どうやら当時の「文壇」は至って感情的な、拒絶反応(rejection)を催さざるをえなかったようなのである。事実、このようにして振り返れば、たしかに有吉佐和子は稀代の「ストーリー・テラー」であり、その名の通りの「ベスト・セラー作家」であったにも拘らず、その評価は主として、読者の側の評価であり、決して作者の側の評価では、なかったのであった。

なお、ここで磯田光一が「硯友社」(けんゆうしゃ)と言っているのは、当然、例の尾崎紅葉(おざき・こうよう)を中心にして、明治の二十年代から三十年代を席巻した、当時の一大文学潮流であり、一大文学派閥であったが、そこから逆説的(paradoxical=背理的)にも、その「硯友社」の文学的理念や、その作家的態度や小説的技法を否定し、これを打倒し、打破することによって、いわゆる日本の、正真正銘の「近代文学」はスタートを切ることになる。と、このように教えているのが、君や僕が教わる「日本文学史」の常識であるし、その際の転覆の代表であったのが、先刻来、磯田光一が名を挙げている、あの志賀直哉に辿り着く「リアリズム」であった訳であり、そのような「写実主義」や「現実主義」や、とりわけ「自然主義」の流れの中で、日本の「近代文学」は完成に至る。

とすれば、このような日本の「近代文学」の系譜とは異なる、その意味において、むしろ非近代的で、さらに反近代的な道を、有吉佐和子は辿ったことになるのであり、それは磯田光一に言わせれば、彼女の「作品の系譜は、江戸文学の遺産をうけつぎながら、狭い意味での〝純文学〟とは異なる方向に開花を求めた作品の系譜」であり、また「これらの作品のうちに、その作者の内部の〝告白〟をみるのは困難であるとしても、その作風は江戸文学のヒーローたちの人間像を継承しながら、物語を様式のうちに封じこめた」ものでもあった。そして、それは「硯友社の作家が社会的孤立よりも、物語による読者との連帯を求めて書いた」のと同様、有吉佐和子も深い、みずからの「地底の奥にひそんでいる古い美徳を喚起しながら、風土のなかでの読者の共感を求めた」作家であった訳である。

と、ここまで話が来れば、例えば僕が『紀ノ川』を読み直し、これを最高に面白い物語(ロマンス)であると感じた理由も、君には事情が、よく分かって貰(もら)えるはずである。言い換えれば、かつて日本が「近代化」(すなわち、西洋化)という名目で、この「至上命令」を成し遂げようと躍起になっていた頃......そして、それが「至上命令」であることさえ、やがて日本人の頭の中からも、心と体の中からも、ほとんど意識されず、自覚される必要もなくなってしまった頃、この二つの時を跨いで、そこに忽然と一人の「才女」が登場し、この「才女」の口を通じて、おそらく当時の日本人は自分たちが見失い、忘れようとしている何かを、まさしく異物のごとき遺物として、目の前に差し出されたのではなかろうか。ちょうど、あの『紀ノ川』の中を流れ続ける、川のような姿をして。

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