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『日本文学史』入門(承前)――「教養」の来た道(231) 天野雅郎

小西甚一(こにし・じんいち)の『日本文学史』(1993年、講談社学術文庫)の話を、今回も僕は君に、あれこれ聴いて貰(もら)いたい、と願っているけれども、この......日本文学者と称するべきなのか、それとも比較文学者と称するべきなのか、いずれにせよ、この、はなはだ独創性(originality=根源性)に満ち溢れた文学研究者は、もう今から100年以上も前、大正四年(1915年)に現在の、三重県の伊勢市に生まれ、育ち、それから平成十九年(2007年)に亡くなる時まで、93年に及ぶ生涯を送ったことになる。と言うことは、彼が東京教育大学と、ひいては筑波大学の教員をしていた頃、僕が幸運(能力?)に恵まれていれば、この文学研究者の講義を実際に聴き、その謦咳(ケイガイ)に接することも出来たのかも知れないが、残念ながら、それは叶わぬ、夢の、また夢の話である。

ところで、僕が先刻、使ったばかりの「謦咳」という語は、謦(ケイ→漢音、呉音→キョウ)にしても、咳(ガイ→呉音、漢音→カイ)にしても、どちらも「せきばらい」の意味である。と言うことは、そのような「せきばらい」の音(声!)を聴くために、わざわざ君や僕が誰かの許を訪ね、その近くに座り、その人の話を文字どおりに傾聴することが「謦咳に接する」という言い回しであって、いささか大仰な表現を用いると、そもそも学問や学問の府である大学は、君や僕が、そのような経験を積むために存在しているのではなかろうか、と僕は信じているのであるが、さて君は、いかがであろう。言い換えれば、そのような経験を積むことが叶った時に、はじめて学問は学問と呼ばれ、学ぶことも問うことも、その直接性(immediacy=無媒介性)を手に入れるに至るのではないか知らん。

と言い出すと、このような表現が実に誇大な、はなはだ空虚な物言いに感じられてしまうのは、きっと君や僕が昨今の、このような人間関係の成り立たなくなった大学しか、知らないからに違いない。なぜなら、少なくとも僕が大学生であった頃には、いまだ大学には「謦咳に接する」必要のある、そのように思わせる教員が、確実に存在していたからであり、それが多分、君と僕の間に立ち開(はだか)る、大学や学問に関する、とても大きな壁であるかのように、僕には察せられるのである。なにしろ、現在の大学では下手をすると、まるで教室が雑踏(hustle and bustle)のような様相を呈し、そこでは教員の「せきばらい」も、たちまち私語(=お喋り)や死語(=居眠り)の中に姿を消して、あらゆる音声が騒音や雑音と紙一重のものに、姿を変えてしまいかねないほどであったから。

ただし、僕が大学生であった頃を振り返っても、そこで僕が「謦咳に接する」必要があると思ったのは――はっきり言って、恐縮であるが(......^^;)どうやら1920年代の後半から1930年代の前半に生まれた、いわゆる昭和一桁(ひとけた)の教員が最後なのであって、その後の世代(すなわち、昭和二桁)は、よほど個人的な資質や魅力に富む教員でない限り、このような「謦咳に接する」必要のある教員は、ほとんど存在していなかったのが実情ではあるまいか。と言い出すと、これは余りにも由々(ゆゆ=忌々)しき事態であろうし、問題発言を通り越して、爆弾発言そのものであろうから、さすがに僕も気が引けるので、とりあえず今は小西甚一が、もう少しばかり世代を違えた、昭和一桁の上の世代であり、大正時代に生まれた文学研究者であったことを確認しておけば充分であろう。

さて、そのような小西甚一の『日本文学史』の、何が面白く、興味深いのかと言い出すと、前回も述べたように、この「日本文学」の歴史は通常の、一般の入門書や概説書ではなく、言ってみれば、正真正銘の入門書であり、概説書であったからである。この点を、今回は彼のキーワードである、いわゆる「雅」と「俗」という語に即しながら、辿り直しておくと、この両者の違いは人間(要するに、君や僕)が「永遠なるもの」と、どのように関わり、どのように憧(あこがれ→あくがれ=飽離)れ、そこから、どのような宗教や学問や、とりわけ芸術が産み出されるに至るのか、という点に辿り着く。それと言うのも――「わたくしども自身は、けっして永遠」ではなく、また「わたくしどもが永遠でないことを自覚するとき、永遠なるものへのあこがれは、いよいよ深まるであろう」から。

 

わたくしどもは、永遠なるものに憧れずにはいられない。それは、わたくしどもの日常心においては、あまり無いことであるが、日常心の底には、日常的でない何ものかが、深淵のように〔、〕わだかまっており、日常心が〔、〕それに行きあたるとき、日常心が〔、〕どこかで綻(ほころ)びて、永遠の光が、きらりとさしてくる。〔中略〕ところで、永遠なるものへの憧れは、北極と南極とのように、ふたつの極をもつ。そのひとつは「完成」であり、他のひとつは「無限」である。いま、これを藝術の世界について考えると、完成の極にむかうものは、それ以上〔、〕どうしようもないところまで磨きあげられた〔、〕高さをめざすのに対し、無限の極におもむくものは、どうなってゆくか〔、〕わからない動きを含む。わたくしは、前者を「雅」、後者を「俗」とよぶことにしている。

 

さて、と繰り返すけれども、いかがであろう。これまで君は一度でも、このような「日本文学」の歴史に、出くわしたことがあったであろうか。......あったのであれば、おそらく君が「日本文学」の歴史に興味を持たなかったり、持てなかったりすることは起こりえず、そのような事態は君に身の上に、まったく生じない事態であったに違いない。ところが、それにも拘らず、どうやら世の中には「日本文学」の歴史に関心がなく、その面白さを一向に理解しないまま、知らない間に年を取り、どんどん老(ふ)け込んでいく人も多いのではなかろうか。そして、そのような誰かと何かの話題で、話し合う時の詰まらなさや、寂しさや侘しさと言ったら、それは筆舌に尽くし難いほどであって、そのような寂しさや侘しさの責任を、いったい僕は誰に向かって問い掛けたら、よろしいのであろう。

と言い出すと、それは多分、日本の学校教育の根本問題にまで辿り着かないと、収まりの付かない話であったろうし、そこでは結果的に、収まりの付かない話でもあったのではなかろうか。その点、僕自身は小西甚一が生前、国語教育に多大の関心を示し、そこから大学受験の参考書や辞書類を執筆したり、おまけにラジオの受験講座の講師まで引き受けたりしていたことに、けっこう興味を覚えている。なぜなら、僕自身が実際、高校生の時分に「日本文学」の歴史を面白く感じた経験など、身に覚えのない側であって、ようやく受験勉強が終わり、大学生になってから、はじめて「日本文学」の歴史に接近することが叶ったからである。まあ、その点を踏まえて言えば、人には何時でも「日本文学」の歴史と邂逅する機会や、その窓口は開かれている――と言えば、言えるのであるけれども。

ともかく、このようにして小西甚一が執筆した、何と1950年代から1960年代に掛けての、いわゆる受験参考書の類まで、いろいろ最近では文庫本(ちくま学芸文庫→『古文の読解』『古文研究法』『国文法ちかみち』)で読むことが出来るのであるから、世の中は変わった......と言おうか、ありがたい世の中になったものである。と、このような老人風の感慨に浸るよりも前に、さっそく僕も高校生の時分に戻り、もう一度、一から「古文」や「国文法」の勉強を、し直そうか知らん、と思い立っている所である。ちょうど、僕の娘も中学生になって、このような勉強が始まる頃であろうし、そこで親子ともども小西甚一の受験参考書や、何よりも『日本文学史』を読むことが叶うのであれば、それは下記のごとき「日本文藝」の理念と、その実践に連なるものでも、ありえたはずであるから。

 

西洋的なものが日本文藝におよぼした最大の影響は、literatureという概念である。中世において、本格的な文藝――第一藝術――と意識されたのは、表現者と享受者が同圏内に在るような種類のものであった。表現者が享受者と切り放された種類のものは、文藝ではなかった――あるいは第二藝術であった――。だから、和歌は第一藝術であり、物語は第二藝術または〔、〕それ以下でしかなかった。ところが、西洋的なliteratureの意識においては、表現者と享受者の分離したものこそ第一藝術であり、両者が同じ圏内に在る自給自足的作品は、逆に、第二藝術なのである。その結果、小説が文藝の王座を占め、和歌や俳諧は第二藝術となった。和歌や俳諧が第一藝術であろうとすれば、従来の在りかたを清算し、小説と同様の表現理念を〔、〕もたなくてはならなかったのである。まさに、コペルニクス的転回だと〔、〕いってよい。

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