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日本的であること(承前)――「教養」の来た道(234) 天野雅郎

今回は最初に、小西甚一(こにし・じんいち)の『日本文学史』(1993年、講談社学術文庫)のページを、ふたたび捲(めく)り直す所から話を始めたい。この著作自体は、すでに前々回の、その、また前々回に報告を済ませたように、もともと昭和二十八年(1953年)に弘文堂から出版されたものであったから、もう今から64年も昔の本になるのであるが、どうやら僕自身の不勉強が祟(たた)って......と、このような時には謙遜して、寡聞(カブン)という語を使うのが本来の、知識人や文化人や、要は「教養人」の語法であろうが、残念ながら現在の大学は、このような儒教的で、かつ仏教的な言い回しが根絶(コンゼツ)し、根絶(ねだ)やしとなってしまったのが実情であるし、僕自身の場合は端的に、純然たる不勉強の結果であったから、このように表現するのが相応しい訳である。

と、このようにしてノラリクラリと、話が彼方(あち→あっち→あちら)へ行ったり、此方(こち→こっち→こちら)へ行ったりしているのが、突き詰めれば、いわゆるアジア(Asia=日の昇る所)的な「教養」の特徴であり、その神髄である(!)と僕は信じていて、それはヨーロッパ(Europe=日の沈む所)的な「教養」と比べると、かなり違う「文化」(culture)に根差し、異なる「人間形成」(Bildung)を目指しているのではなかろうか、と考えているから始末が悪い。なぜなら、このようなアジア的な、言い換えれば、東洋的(Oriental→Eastern)な「教養」が姿を消し、それに変わって、とにかく単純で明快な、西洋的(Occidental→Western)な「教養」が「教養教育」や、その「改革」の名の下に、ノッシノッシと大手を振って歩いているのが、昨今の大方の大学であったから。

おまけに、その際の「教養」も「教養教育」も、その「改革」も、困ったことに短時間の、手間暇不要(てま・ひま・いらず)の、要は「インスタント」(instant=即刻)であることを旨(むね)としているのであるから、開いた口が塞がらない。第一、和歌山大学のように「生涯、あなたの人生を応援します」と宣言し、標榜している大学が、その際の「生涯」や「人生」という時間の長さや、その幅を弁(わきま)えず、これを無視するかのような「教養教育」を行なっているのであれば、それは公約違反以外の何物でもない、と僕は思いつつ、このような紆余曲折を続けているけれども、はたして君は「教養」という名の――まさしく君が君を教え、養うべき時間を、短時間で終えることが出来るのか知らん、それとも、そこには相応の時間が求められ、求められざるをえないのか知らん。

ともかく、このようにして一定の、ある程度の幅を兼ね備えた、長い時間(time→tide=潮流)を費やし、そこに何か(あるいは、誰か)が姿を見せ、その何か(あるいは、誰か)が君や僕の目に留まり、そこから理解や共感や、ひいては評価の兆(きざし=萌)が生じる段階にまで、そもそも「教養」は辿り着く必要がある、と僕は感じている。事実、そのような時間を介在させることで、はじめて僕は例えば、小西甚一の『日本文学史』と出会い、これを読むことも叶った訳であり、その際の「出会い」(encounter=出交し)の「幸運」(happiness→happening=偶然)に比べれば、君や僕が何か(あるいは、誰か)を待ち、待ち続ける中で、時にはイライラしたり、ジリジリしたりすることも、そこでは当然、支払われるべき代価である、と僕は思うけれども、さて君は、いかがであろう。

閑話休題。......と書き記すことが、この時点において適切なのか、どうなのか、僕にも事情が、よく分かり兼ねるけれども、おそらく僕が小西甚一の『日本文学史』に、もっとも心を惹(ひ)かれるのは、この『日本文学史』が「日本文学史」であると評するよりも、むしろ「中国文学史」であった点である。と言い出すと、いささか語弊があって、さっそく注釈(釈明?)を施しておくのであるが、この『日本文学史』には以前、僕が君に紹介したように、全部で五つの章があり、その内の三つの章を「中世」が占め、しかも、それが第一期から第三期まで別れ、これだけで何と、この本の相当数のページが、ざっと数えただけでも七割以上のページが、割かれている次第。翻れば、残っているのは「古代」と「近代」と、それから「序説」と「結語」の、わずかな部分に過ぎなかったのである。

要するに、この『日本文学史』では「中世文学史」が、その中枢を占め、中核を成している。まあ、この点に関しては、小西甚一が「中世文学史」の専門家であったことを踏まえれば、それなりに納得の行く点である、と言えば言える。でも、その「中世文学史」を彼が、まず「序説」の中で「非日本的」(!)と規定し、それを「シナ的」(!)と言い換えていることに対しては、君や僕は驚かざるをえない。なぜなら、君や僕が一般に、通例の「日本文学史」を繙(ひもと=紐解)くと、そこに登場する「中世」とは、それが小西甚一の言う、第一期(平安時代)でも第二期(鎌倉時代+室町時代)でも、さらに第三期(江戸時代)でも、これらの時代は「日本的」な時代であり、その時代の全体が、ことごとく「日本的」な刻印を帯びたものである、と教わるのが普通であったからである。

実際、これらの時代の特徴を表現するために、それこそ「国風文化」という言い回しまで、君や僕は用いる(用いさせられる?)のであって、そこでは宗教であっても、学問であっても、芸術であっても、はたまた建築や絵画や彫刻や、あるいは音楽や舞踊や演劇に至るまで、これらを総称するために「国風」や「和風」や、要は「日本的」という呼称ほど相応しいものはない、と君や僕は知らず知らず、どこかで当然のように思い込んでいるのが実情である。――が、よく考えてみれば、これらの時代に産み出された「文化」は、それが「寝殿造」であっても「十二単」であっても、それどころか、それが「能」や「茶の湯」や、あるいは「歌舞伎」や「人形浄瑠璃」であっても、これらが本当に「日本的」である保証......と言おうか、そのための判断基準は、どこに存在しているのであろう。

と言い出すと、実は君や僕は下手をすると、これらの「文化」を一度も、これまで見たことがなく、聞いたこともなく、ましてや、それらを衣食住の一環として、みずからの生活や人生の中に持ち込んだ試(ため=験)しなど、皆無であるにも拘らず、それらを不思議なことに、いつも「日本的」と呼ぶ習慣を身に付けているのではなかろうか、という不安が頭を擡(もた)げてこざるをえない。そして、そのような時、これらの「文化」を「日本的」と称するのではなく、むしろ「シナ的」と言い換えることで、そこに新鮮な、爽快な風が「日本文化史」や、ひいては「日本文学史」や「日本美術史」の中に吹き込み、吹き抜けることを教え、示してくれているのが、繰り返すまでもなく、小西甚一の『日本文学史』であり、また、さらに岡倉天心の『日本美術史』でもあったのではなかろうか。

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