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中上健次論(拾遺)――「教養」の来た道(237) 天野雅郎

これまで中上健次(なかがみ・けんじ)という作家の、よい読者であったとは、とうてい言えない僕であるし、これからも言えそうにない僕である。が、この作家のことが何かしら、いつも気がかりであったことは確かである。そして、その理由は多分、僕が彼と同じく「本」や「音楽」と縁(ゆかり)のない「家」に生まれ、育ったことと無縁ではないであろう。――「今から思えば不思議な話であるが、私の居た土建業を営む義父の家では、本などなかったのである。貧乏で買えなかったのではなく、本を買うに足りる金、レコードを買うに足りる金を親に言えば〔、〕くれもしたが、言い出せなかったし、また人が本を読む、人が音楽を聴くという習慣など〔、〕その家にはなかった。本を読む、音楽を聴くとは衰弱した無用の者のやる事だ、という頭が、私の親にはあった」。(『紀州』)

また、このような「家」に生まれ、育った者の習癖(性癖?)として、どこかで「本を読む」ことや「音楽を聴く」ことが恥しい、決して人目(ひとめ)に触れさせてはならない......秘匿(ヒトク)の行為であるかのように感じられていた点も、ひよっとすると中上健次と僕には、ある種の共通性が存在しているのかも知れない。その点、彼も僕も共に、このような「家」を高校卒業時に離れ、かなり事情は違うけれども、それぞれの独り暮らしを始めた時点が、言ってみれば、反動的に「本を読む」ことや「音楽を聴く」ことと繋がり合う、はなはだ分かり易い、出発点でもあった訳である。――以降、僕が現在のように部屋の中を、それどころか「家」の中を、まさしく壁中、本棚にしたり、朝から晩まで、その「家」の中でレコードやCDを掛けたりするまでになろうとは、信じ難い話である。

 

いまでも〔、〕そうであるが、子供の頃から、本を読むこと、うつくしいものを〔、〕うつくしいと言うこと、物を書くことが、はずかしくて〔、〕しようがなかった。〔中略〕隣家から〔、〕もらった花の種を庭に植えたのだった。芽が出て、花が咲く寸前まで育てた。盆の日だったか、父は、人夫を使って、庭を雑草の芽ひとつ残らないように〔、〕きれいさっぱり〔、〕むしりとり、はき清めさせた。花を育てるような「たおやめ」(原文:傍点)を、根こぎにされたのである。いまも本を読むこと、物を書くことが、その花である気がする。

 

この一節は、中上健次が昭和五十一年(1976年)に30歳で、戦後生まれでは初の、芥川賞(第74回)の受賞者となってから、その直後に雑誌(『文藝春秋』)に掲載されたエッセイ(「作家と肉体」)に含まれており、やがて彼の第一エッセイ集(『鳥のように獣のように』)に収められることにもなるのであるが、この時期の作品が僕個人は、小説であってもエッセイであっても、この作家の生涯において、いちばん落ち着いて読むことの叶う時期の作品である。ただし、それは同時に僕と中上健次の間にある、どうしようもない隔たりを感じ、その隔たりを確かめる行為を抜きにしては成り立たないし、そのことによって逆に、この作家が今でも僕に与え続けている、いたって不思議で、不可解な親近感の根っ子にあるものを、くりかえし僕に考えさせる......何かでも、ありえたのであった。

そのような何かを、あれやこれや、具体的に想い起こしてみると、例えば「不思議な場所」というエッセイがある。このエッセイは、僕が今、膝の上に置いている角川文庫版の『鳥のように獣のように』(1978年)の「初出一覧」を見ると、この作家が上述の、芥川賞の受賞発表があった翌々日(1月16日)の『東京新聞』(夕刊)に、急いで書き下ろしたもののようであるけれども、その冒頭は「物を書くのが、喫茶店である。十八で東京に出て来て、今日まで変らない」という形で始まっていて、のっけから「喫茶店」に出向く習慣など、ほとんど欠いており、ましてや「喫茶店」という「不思議な場所」で「物を書く」ことの出来る、この作家と僕との性格上の、決定的な差異性に思い至らざるをえない次第。「雨の日も、風の日も、同じ喫茶店の、同じ場所に座って、物を書いている」。

言い換えれば、このようにして「万年筆と紙があれば、どこでも書斎になる」という経験を、これまで僕は、した試(ため)しがないし、せいぜい僕には電車やバスの中で、ふと思い付いたことを雑記帳にメモする程度が関の山である。したがって、僕には「女房から、三百円もらって、出かける。〔コーヒー〕一杯二百五十円。ああ、この二百五十円の書斎」という日本語を、きっと死ぬまで、一度として書くことは叶わないであろうし、その「書斎」に「タクシーの運転手の群〔むれ〕」や「暴走族のグループ」が屯(たむろ)する傍ら、そこに「雨がふる。ヒーターの効いた喫茶店に〔、〕ぬくぬくと居るのに、雨にさらされ、風に嬲(なぶ)られる自分の姿が眼に浮かぶ」と、このようにして「嬲」(=男+女+男)という漢字を使い、みずからの想像力を働かせることも不可能であろう。

でも、このようにして彼、中上健次と僕との間にある、どうしようもない隔たりを感じる一方で、それにも拘らず、僕は彼と共に「やはり、女房子供を養う金はキタなく〔、〕かせぎたくない」と考えている、何と――自分でも驚き、呆れ返るほどの男らしさ(......^^;)も兼ね備えている側なのであって、おまけに「体を使わず、頭を使う商売は、キタない」という信条と、それが重なり合い兼ねないから始末が悪い。と言ったのは、そこから僕が中上健次のように、まさしく「物を書くだけでも充分にキタないのに、生活の糧を得る為の労働までキタなくしたくない」という結論に至るのは、ごく自然の、当然のことでありえたからである。まあ、そのような煩悶もあって、僕自身は何歳の頃からであったろう、もっぱら「物を書く」だけで「生活の糧を得るための労働」は放棄したのである。

とは言っても、はたして僕のような類(たぐい)の、ある種の「生活の糧を得るための労働」を、いわゆる世間の目が、どのように見なしているのかは別問題であり、むしろ大学の教員が「体を使わず、頭を使う商売」であると誤解し、錯覚している人たちは、大学の外部は言うに及ばず、その内部においても、教員であっても、職員であっても、学生であっても、それこそ巨万(コマン)と、五万(ゴマン)と存在しているのが実情であり、そのような人たちの頭の中では、あいかわらず大学の教員は特権的な知識人(インテリゲンチャ→ロシア語→intjelligjencija)であって、決して「労働者」ではない(!)と信じられているのであるから、大変である。まるで今から、百年ばかり前の大学の教員が、そのような優雅な、呑気な有閑階級と見なされ、悪口を浴びせ掛けられていたように。

幸い、僕個人は世間的には、このようにして誤解も多く、錯覚の付き纏(まと)い続けている、いわゆる大学の教員ではあっても、みずからを小説家であるとか、あるいは詩人であるとか、要は「文学」という名の、おそらく魔物(demon)のごとき語と付き合い、関わることを免れ、今に至っている訳である。が、そのような幸運(eudemon)を僕に齎(もたら)してくれたものは、いったい何であったのか知らん、と自問自答をしてみると、そこに浮かび上がってくるのは、例えば中上健次が「作家と肉体」において回想しているような、彼の「母」の言葉にも似た、それと近しい、僕の「家」の生活観や人生観や、倫理観であったに違いない。その意味において、その限りにおいて、僕自身は素直に、みずからが「本」や「音楽」とは無縁の「家」に生まれ、育ったことを、誇りに感じている。

 

母は、物の世界から離れ、小説を書いたり読んだりすることは、すなわちノイローゼになることであり、結局は自殺にいたる、と言う。小説を書いて賞をもらうことは、人殺しと同じように、人から後指〔うしろゆび〕さされることでもある、と言う。〔中略〕男とは、と言うのは、いつも母の口ぐせであった。まず、働け、と母は言った。〔中略〕母は、額に汗水たらして働いて金を手に入れ、女房子供を養い愛(いと)しんでこそ、男であると言う。母にしてみれば、汗水たらして作った金こそ、男の、持つ金、甲斐性(かいしょう)の金なのである。それは〔、〕ぼくも〔、〕そう思う。この資本主義社会において、金はどう作ろうと金にすぎないが、労働の報酬としてある金と、不労所得の金の二種類があるとは思っている。世の中に、労働者と資本家の二とおりがあるようにである。キレイな金とキタナイ金は、ある。

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