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作家の工房(承前)――「教養」の来た道(244) 天野雅郎

前回、僕が膝の上に乗せている......と書いた『熊野誌』(第39号)は、その奥付(おくづけ)を見ると、かつて中上健次(なかがみ・けんじ)の主宰していた熊野大学と、それから熊野地方史研究会と新宮市立図書館が合同で、平成六年(1994年)に発行したものであったから、それは僕が和歌山の土を踏んで、丸三年近くが経とうとする頃に、もう今では閉店してしまった「宮井平安堂」の本店の片隅で、たまたま見つけた同誌を購入したことが想い起こされる。と言うことは、やはり僕は四半世紀も前から、この作家のことが気になっており、いろいろ資料に相当するものに出会(くわ)すと、これを買い求めていたようなのではあるが、なかなか生来の怠け癖が抜け切らず、どんどん時間ばかりが経ってしまい、この時期に至って漸(ようや)く、この雑誌のページを開き直している次第。

ちなみに、君は「宮井平安堂」という名を聞いても、いっこうにピンと来ないのかも知れないが、この書店は遡れば、明治二十六年(1893年)の創業(!)で、和歌山では老舗(しにせ)中の老舗であったけれども、それが平成二十三年(2011年)になって120年にも及ぼうとする歴史に幕を閉じ、それに先立って、この前年には僕が『熊野誌』を買い求めた、上記の本店もシャッターを下ろしている。もちろん、このような事態には複雑な背景があって、この場で簡単なコメントを施すことは出来ないが、例えば「宮井平安堂」の誕生した年に生まれたのが、矢内原忠雄(やないはら・ただお)や村岡花子(むらおか・はなこ)であり、逆に亡くなったのが、河竹木阿弥(かわたけ・もくあみ)や清水次郎長(しみず・の・じろちょう)であったことは、君も僕も記憶に留めておいて損はない。

ともかく、このようにして再度、僕が目を通している『熊野誌』には、まず巻頭に中上健次の講演(「小説家の想像力」)が載せられていて、この講演自体は、平成二年(1990年)に彼の故郷の新宮で催されたもののようであるけれども、その会場が「職業訓練センター」であった点も含めて、この作家にとっては「想像力」の問題が「小説家」として、もっとも根幹(根柢?)に位置する問題であったことが振り返られて、興味深い。その意味において、僕は今回も中上健次の第二エッセイ集(『夢の力』)の中から、あれこれ刺激に富んだ、この作家らしい攻撃的な文章を抜き出して、君の一覧に供したい、と願っているのであるが、そもそも彼が東京に出るまで、一冊も本がない家に生まれ、育ったことは、すでに「中上健次論(拾遺)」(第237回)と題して、僕は君に報告済みである。

裏を返せば、彼が自分で「書店に通い、自分の金で本を買う習性が身についた」のは、どうやら昭和四十年(1965年)の、19歳の頃からのことであるらしい。とは言っても、この「〈本〉の外へ飛び出したい」というエッセイに従うと、もともと「中学時代も高校時代も〔中略〕自分で本を買った事がなかった」上に、さらに「そもそも書店に立ち寄る習性がなかった」彼には、結果的に本を買っても、その本は読了するや否や「すぐに古書店に」売り飛ばされるのが通例であったようである。――「古書店で本を売るのは、単に金がないからであるが、酒を飲むため、或いはパチンコをするため、女に会うため、本に書かれてあるものより今が大事だと自分をなだめて、手離した。そんな気持ちを分かって頂けるだろうか? 本を身辺に置いておかないのは、自分の意志でなく、単なる結果だ」。

と、このように中上健次は『枯木灘』が、ちょうど刊行されようとする直前(昭和五十二年→1977年)になって書き記しているけれども、残念ながら僕自身は「そんな気持ちを分かって頂けるだろうか」と問われれば、正直な所、よく分からないし、のっけから「金がない」のであれば、まっさきに「酒を飲む」ことや「パチンコをする」ことや「女に会う」ことは二の次(......^^;)にするであろうし、逆に後回しに出来ないものがあるとすれば、それは「本を買う」ことなのではないか知らん、と思わざるをえない。その点、彼が「本を身辺に置いておかないのは、自分の意志でなく、単なる結果だ」と言い放っているのも、僕には理解の行き届かない話であり、それは「単なる結果」ではなく、むしろ「自分の意志」以外の何ものでもない、と判断するけれども、さて君は、いかがであろう。

もっとも、このようにして彼が、ほとんど(まったく?)本を身の回りに置かず、売り放った状態で、それにも拘らず、小説を書いていたことは重要であり、実は、このような矛盾に満ちた〈本〉との関わりこそが、中上健次という「小説家」の原点であり、そこから彼の、内容面をも形式面をも貫き通す、あらゆる小説作法は由来していたのではあるまいか、と僕は感じざるをえない。したがって、それは単に小説や評論や、あるいは詩を書いて、それを書物化し、書籍化することに夢中になり、躍起になって、寝ても覚めても、そのことばかりを考えて筆を執り続ける――とは言っても、実際にはパソコンのキーボードを叩(たた=敲)き続けるのが、もっぱらの作業であろうが、そのような書物好きや書籍好きの作家とは、一味も二味も違う、中上健次の魅力であったに違いないのである。

 

本とは不思議なものである。改めて〔、〕そう思う。小説を書き、単行本にまとめて読者に読んでもらうのが、今、小説家の私の職業だが、ひょっとすると、今までも〔、〕そうだったように〈本〉との格闘が、この小説家という職業の意味かもしれないと思う。〔改行〕〈本〉に収められてしまうが、〈本〉に収められたくない。〔改行・中略〕本は小説家にとっては〔、〕わくわくするものだが、つまり大げさに言えば、私というものが死んでも、閉じ込め、熱を吹き込んだ〈本〉というものは〔、〕この世に在る。もともと最初の出発が、書きとめたい、書き残したい、という〔、〕やむにやまれぬ事でもあった。〈本〉を残す事は、小説家の最初の願いであり、今の願いであり、最後の願いでもあった。だが、〈本〉に収まってしまう事が、耐えられないことも確かだ。

 

このような〈本〉との「格闘」......と中上健次は言っているけれども、そのような「格闘」を通じて産み出された、まさしく『枯木灘』という一冊の小説が、目下、僕の机の上に置かれており、その〈本〉のページを捲(めく)りながら、僕はアレコレと好き勝手なことを考えたり、書いたりしている。けれども、そこにウゴウゴと動(うご)き、蠢(うごめ)いているのが、主人公の竹原秋幸(たけはら・あきゆき)を始めとする人間集団であり、人間関係ではあっても、そこに果たして中上健次という「小説家」は、みずからの居場所を確保しているのであろうか。――おそらく、そうではあるまい。なにしろ、この「小説家」は前掲の通り、そのような事態を嫌い、憎み、それにも拘らず、それを愛し、そのような居場所から必死に、身を引き離そうと踠(もが)いていたのであったから。

ところで、僕が先刻来、膝の上に乗せている『熊野誌』の裏表紙には、そこに「地域社会の文化向上に御奉仕致します」という宣伝文と共に、新宮の四つの書店の名(中川三星堂・ゲーテ書房・くまの書房・太陽堂)と、その電話番号が掲げられているのであるが、この四つの書店は今でも、ちゃんと存在しているのであろうか。そのことが、とても僕は気になって、気になって仕方がなく、何かの折を見て、この四つの書店を訪ねる旅にでも出向こうか知らん、と思い兼ねないほどである。が、この『熊野誌』を僕が見つけて、たまたま購入した「宮井平安堂」の本店も、もう跡形がない以上、この四つの書店の中に、ふらりと僕が立ち寄り、その本棚から中上健次の〈本〉を抜き出し、手に取り、それを素知らぬ顔で立ち読みをして、悦に入ることの叶う幸運は、期待薄なのかも知れないね。

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