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島と岬の話(第一話)――「教養」の来た道(246) 天野雅郎

島(しま)とは、いったい何なのか知らん。――このような素朴な、見様によっては幼稚な疑問を、そもそも僕が何時の頃から抱え込んでいたのか、その由来を遡ると、おそらく僕の郷里(島根県松江市)にまで話は辿り着かざるをえないであろう。なにしろ、たまたま僕の郷里が日本中で、このようにして「島」の付く、五つの県(50音順→鹿児島県、島根県、徳島県、広島県、福島県)の内の一つであったことが、そこには大きな影響を及ぼしているであろうから。そして、それにも拘らず、これらの県名において一つだけ、この「島」という語が下に付く(○島)のではなく、上に付く(島○)のが島根県であり、結果的に僕の生まれ、育ったのは日本中で一つだけ、この「島」という語に固有の、それぞれの「島」の形状や姿態が表現され、命名されている場所では、なかったのである。

この点は、かつて『万葉集』(巻第十五)に天平八年(736年)の、いわゆる「新羅(しらき)に遣(つか)はささるる使人等(しじんら)」(=遣新羅使人等)の歌が収められ、そこに現在の長崎県の壱岐島(いきのしま→ゆきのしま)で「鬼病」(天然痘?)に罹って亡くなった、雪宅満(ゆき・の・やかまろ)の死が弔われた折、この「島根」という語が「岩(いは)が根」の......岩の根のように深く、しっかり大地に根を下ろした、荒々しい姿を刻み出していた点からも、はっきり窺われるのであって、このような垂直性が本来的に、この「島根」という語には伴われていたことを、君や僕は見逃してはならない。――「遠(とほ)の国(=新羅)いまだも着かず、大和(やまと→原文:也麻等)をも遠く離(さか)りて、岩が根の、荒き島根(原文:之麻祢)に宿(やど)りする君」(3688)

言い換えれば、このようにして「島根」とは、そこに君や僕が水平方向の、ある種の広がりをイメージし、その広がりに何らかの、人間的な正しさ(=徳)や豊かさ(=福)を結び付け、それが文字どおりに「正」(プラス→生)の価値や能力を積極的(positive=肯定的)に代弁しているだけの場所では、なかったのであり、そこには同時に、さらに人間的な「負」(マイナス→老、病、死)の要素や側面が、どこまでも深く、垂直方向において絡み合う......その意味において、みずからの消極的(negative=否定的)な価値や能力をも身に纏(まと)う、不思議な場所でもあった訳である。――と、ここから僕の『出雲国風土記』や、あるいは『古事記』や『日本書紀』や、いわゆる日本神話への興味を語り出したいのは山々(やまやま)であるけれども、この点については別の機会に譲りたい。

ともあれ、このようにして僕の「島」への関心は、かなり古く、かつ深い。......という点だけは、この場で君に伝えておくことにして、まず日本語で「島」という語が持っている、原初的で基本的な姿を、白川静(しらかわ・しずか)の『字訓』(1987年、平凡社)を借りて、説明しておくことにしよう。なお、この引用の後に白川静は、柳田國男(やなぎた・くにお)と折口信夫(おりくち・しのぶ)と西郷信綱(さいごう・のぶつな)の、それぞれの語源説を挙げており、それ自体、とても重要なのであるが、これまた今回は、ご放免を。――「嶋山という語があるように、川がめぐり流れていて、嶋のように孤立した形となっているところをいう。また周囲が〔、〕すべて水にかこまれている地をいう。「しむ」「すぶ」「すむ」などと関係のある語で、もと特定の一区画を意味する語であった」。

ちなみに、もともと「島」は漢字(音読→トウ)で書くと、このようにして「嶋」であったり、さらには「嶌」や「㠀」であったり、いろいろ書き分けることが可能であり、そこには共通に「鳥」のイメージが描かれているのが分かる。したがって、この点からも明らかなように、どうやら「島」とは「鳥が一時〔、〕翼を休める海島をいう」のが本来の形であり、そこから「その小さなものを嶼(しょ)といった。国語の「しま」は海島に限らず、水が〔、〕その周辺にせまっていて、自然に一区画をなすところをいったので、そのようなところに営まれる山斎(さんさい→「人工的に池や築山(つきやま)などを設けた庭園・林泉の類」)をも、「しま」とよんだ。一般には、「しま」といえば海中の島をさし、「しまつもの」とは海産の物をいう」と、ふたたび白川静の『字訓』には述べられている。

と言うことは、どうやら「島」とは日本人にとって、それが古来、自然的(natural=本性的)なものであれ、人工的(artificial=技巧的)なものであれ、いずれも等しく「しま」であって、それを人(ひと=他)が意図的に、どのような方法で「しむ(→しめる)」(占・標)のか、また、どのような手段で「すぶ(→すべる)」(統・総)のか、そして、そこに例えば、鳥や獣が「すむ」(棲)のとは違う、異なった姿で「すむ」(住)ことを、どのような状態で実現するのか......と、このようにして考え出すと、それは上記の、柳田國男や折口信夫や西郷信綱の語源説にも、そのまま繋がる話でもあるし、そこから人間が延々と、今に至るまで繰り広げている、居住や定住や、占領や統治への欲望が交差し、交錯する地点に姿を見せるのが「島」であることも、君や僕は想い起こさざるをえない。

さて、このようにして今回は、ずいぶん長い、長い前置きとなったけれども、ようやく僕は君に岡松和夫(おかまつ・かずお)の『志賀島』(文藝春秋)について、話を聴いて貰(もら)う段階に至ったようである。でも、はたして君が昭和五十年(1975年)に雑誌(『文學界』)に発表され、その翌年には芥川賞(第74回)の受賞作となった、この作品を手に取って、読んでいる確率は、きわめて低いであろうし、そもそも君が『志賀島』という名の、この小説の舞台となっている「島」について、ある程度の知識を携えているのか知らん、と僕は相当に不安である。――と思って、ふと手許の『日本国語大辞典』(2006年、小学館)のページを開くと、そこには有り難いことに、次のごとき「志賀島」(しかのしま)の項が含まれていた上に、何と、あの「金印」の話が載っているではないか。

 

しかのしま【志賀島】(「筑前風土記」によれば「近島(ちかしま)」の変化したもの)福岡市北部、博多湾口の島。現在は海ノ中道と陸続きとなる。古来、大陸との交通の要地にあたり、天明四年(一七八四)に「漢委奴(かんのわのなの)国王」の金印が出土した。蒙古〔もうこ〕首切塚、志賀海〔しかうみ〕神社など史跡が多い。景勝地。しがしま。

 

そう言えば、かつて僕が一度だけ、この志賀島を訪れた際も、それは下世話(げせわ)ながら、この「金印」の掘り出された場所を自分の目で見てみたい、と願ったのが目的の一つであった。とは言っても、ご本尊の「金印」自体は国宝(national treasure)であって、ちゃんと現在は志賀島の対岸の、福岡市博物館(福岡市早良区)に鎮座めしましているから、この島に残されているのは「金印」の発見された跡地に設けられている、公園や石碑のみである。が、それは見方を変えれば、ひょっとすると岡松和夫が『志賀島』の末尾で、あの主人公(青柳宏)と、その友人(竹元啓)の二人に語らせた、お互いの肉眼では決して見えない、靄(もや)の中に覆われている「志賀島」と、どこかで通じ合うものでもありえたのではなかろうか。......と僕も、みずからの眼を閉じながら、また次回。

 

二人は船溜りの先端を歩いていった。そこからは博多湾が見えるはずだった。波が岸壁を洗い始める。今日は曇り日で海の色が淀んでいた。竹元は岸壁に刻まれた石段を下りると、打ちあげてくる水に手を触れた。

「志賀島が見えるねえ。昔のままや」不意に竹元が云った。

宏は黙ったままだった。今日は宏の眼には志賀島は見えなかった。海は靄に覆われていた。〔改行・中略〕よく見ると、竹元は眼を閉じているのだった。

「こうして眼をつぶらんと見えんけん」

竹元は〔、〕それから眼を開いた。〔改行〕竹元は笑った。その笑顔は〔、〕もうすっかり青年のものだった。

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