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島と岬の話(第二話)――「教養」の来た道(247) 天野雅郎

昭和五十一年(1976年)の芥川賞(第74回)の受賞者として、岡松和夫(おかまつ・かずお)と中上健次(なかがみ・けんじ)が名を連ねた時、この二人の作家の間に15歳の年齢差があったことは、それ自体、偶然に過ぎないと言えば、偶然に過ぎないし、当時、昭和六年(1931年)生まれの前者が45歳で、この賞を受賞し、一方、昭和二十一年(1946年)生まれの後者が30歳で、この賞を受賞したことは、それ自体、関係がないと言えば、関係のない話である。が、僕自身は例えば、この二人の受賞作が『志賀島』と『岬』という名の、僕に言わせれば、かなり似通った表題であった点を始めとして、この二人の小説家の間に曰(いわ)く言い難い、ある種の親近性と言おうか、親密性と言おうか、大仰に言うならば、ある種の親和力のごときものまで感じてしまうのであるから厄介である。

なにしろ、僕が今、膝の上に乗せている、岡松和夫の『志賀島』(1976年、文藝春秋)には、その巻頭に口絵写真が載せられていて、そこには「自宅付近の著者」と題された、この作家の散歩姿(?)が写し出されているのであるが――それは多分、この作家の普段の通勤姿と変わる所のない、頭を七三(しちさん)に分け、型通りのコートを身に纏(まと)い、いささか恥ずかしそうに笑い、俯(うつむ)いた、この作家の等身大の写真であったから。とは言っても、それは無論、実物大という意味ではなく、ありのままの姿で、という意味であるけれども、そこには後年、絶えず岡松和夫の写真に伴われている、あの四角張った、学者然とした眼鏡は見受けられないが、まるで絵に描いたような「大学の国文学の先生」が、たまたま小説家となったような出で立ちで、写し出されていた次第。

もちろん、このような姿を一方で、30代でも40代でも構わない、中上健次の生前の写真の数々と比べてみると、その差異は歴然としている。てっとりばやく言えば、この二人が何処かで、何らかの形で出会っても、そこには相互の意思疎通も、ほとんど成り立たないのではなかろうか(......^^;)と、感じさせるほどの違いであり、それは単なる年齢の違いや、生まれ、育った環境の違いや、ひいては学歴や職歴の違いを超えた、その意味において、おそらく根本的な人間性の差異にも通じているのではあるまいか、と僕は思うけれども、さて君は、いかがであろう。ただし、それでも岡松和夫が旧制の、福岡中学校と福岡高等学校を経て、それから新制の東京大学の文学部に入学し、仏文科を卒業した上で国文科に学士入学し、さらに大学院へと進んだ経緯は、無視できないものであったろうが。

ともあれ、このようにして岡松和夫と中上健次の間には、外面上も内面上も、あまりにも大きな開きがある。この点を、おそらく端的に示していたのが、この折(第74回)の芥川賞の選考委員たち(50音順→井上靖、大岡昇平、瀧井孝作、永井龍男、中村光夫、丹羽文雄、安岡章太郎、吉行淳之介)の選評であり、とりわけ興味深いのは、この内の最年長(81歳)であった瀧井孝作(たきい・こうさく)が、岡松和夫に対しては肯定的評価を、中上健次に対しては否定的評価を、はっきり分かれる形で提示していたことである。とは言っても、はたして君が瀧井孝作という小説家(+俳人)のことを、うっすらとでも思い浮かべることが出来るのであれば、とても僕は嬉しい、と言おうか、助かるけれども、それを君のような「ヤング」(1914年用語)に期待するのも、酷(こく)な話であろう。

と言い出して、ここから僕が瀧井孝作の、例えば『無限抱擁』(昭和二年→1927年)の話でも始めたら、それは相当に酔狂であり、風狂ですらあるが、そのような物好(ものず=霊好)きは追って、また別の機会に譲ることにして、この場では彼が芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ)に師事し、いわゆる「龍門の四天王」の一人に数えられ――その結果、上記の『無限抱擁』の刊行の年と、まったく同じ年に芥川龍之介が自殺を遂げ、その8年後(昭和十年→1935年)に芥川賞が創設された際、その選考委員の一人になり、そこから延々......と評しては語弊があるが、実に昭和五十七年(1982年)に至るまで、半世紀近くにも亘り、この賞の選考委員を引き受け続けたことは、記憶に留められて然るべきであろう。要は、そのような芥川賞の選考委員史上の、最古参が瀧井孝作なのである。

そして、この点に即して言えば、彼が中上健次の『岬』に対しては「人物がゴチャゴチャして、描写も何もない、わけのわからんもの、と私は見た」と評しているのは、いささか言い過ぎの感はあるが、はなはだ単刀直入な理解不能(!)の表明であって、潔い。また、逆に岡松和夫の『志賀島』に対しては「私は〔、〕この作の潑剌した筆致を見て、この作者の急に進歩した充実味に感心した。はじめの章の一、二、三、小学生時分の海洋訓練の志賀島行のところは、名文と見た」と評しているのも、納得の行く見解であろう。すなわち、このようにして明治二十七年(1894年)に生まれた小説家の目から見ると、その一方には「わけのわからんもの」があり、もう一方には「名文」があり、それが同じ芥川賞の受賞作として並んでいるのが、ほぼ今から40年前の文学(文壇?)状況であった。

さて、このようにして今回も、けっこう長い、長い前置きとなったけれども、結果的に僕自身も瀧井孝作と同様に、岡松和夫の『志賀島』は「名文」である、と評することに吝(やぶさ)かでない。でも、それが一方で中上健次の『岬』を「わけのわからんもの」と排し、斥(しりぞ=退)けた上での評価と繋がるのであれば、それは如何であろう、と首を傾(かし)げざるをえないのも実情である。――なにしろ、僕に言わせれば『岬』は、とりわけ中上健次の作品の中でも秀逸な、魅力に溢れた作品であり、その魅力の最たるものが皮肉にも、瀧井孝作の言う「人物がゴチャゴチャして、描写も何もない、わけのわからんもの」という点に、あるらしい気が......しないのでもないのであり、このようにして振り返ると、どうやら問題は「描写」という名の、この語の理解の仕方にあるらしい。

と言う訳で、そろそろ紙幅も尽きてきたようであるし、僕は以下、君に瀧井孝作が「名文」として讃えた、その『志賀島』の一節を披露し、君と一緒に、その「名文」を味わい直したいのは山々(やまやま)であるけれども、残念ながら、この『志賀島』という小説の中から一部の「描写」を抜き出すことほど、困難なことはない。と言う点が、おそらく「描写」という語の本質にも関わる点であって、このようなことを書き出すと、ついつい僕のような老頭児(ロートル)には明治時代の、あの「自然主義論争」にまで遡って、話を蒸し返す必要も生じてくるから、始末が悪い。まあ、そのような気が仮に、若い君にも起きるのであれば、まず臼井吉見(うすい・よしみ)の『近代文学論争』(1975年、筑摩書房)のページでも捲(めく)って貰(もら)えると、かなり僕は嬉しいのであるが。

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