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島と岬の話(第三話)――「教養」の来た道(248) 天野雅郎

つい先日、偶々(たまたま)和歌山市が市制100周年を記念して出版した『わかやま・あのころ』(1989年)という本のページを捲(めく)っていて、そこに今から75年ばかりも昔の、和歌山市内の小学校で催された「運動会」の写真を見つけ、僕は今さらながらに驚いている所である。と言ったのは、そこには当時の「日独伊三国同盟」に則(のりと→のっと)って、三人の小学生が胸に、それぞれ日本とドイツとイタリアの国旗を縫い付け、行進をしている姿が留められているからに他ならないのであるが、その三人の小学生の真ん中の生徒の胸に写し出されているのは、いわゆるナチス(National-sozialistische Deutsche Arbeiterpartei=「国家社会主義ドイツ労働者党」)の党章であり、やがてドイツの国旗に採用された、あの「ハーケンクロイツ」(Hakenkreuz=鉤十字)であった。

とは言っても、このような光景に呆気(アッケ)に取られ、唖然(アゼン)とするのは昨今の、君や僕のような「戦争を知らない子供たち」(戦争が終わって僕らは生まれた、戦争を知らずに僕らは育った~♪)の特徴であって、裏を返せば現在の、通称「万国旗」がハタハタと風にハタめく下で、呑気(ノンキ)に「運動会」に興じることが出来るのは特権以外の何物でもない。――と書いて、ふと想い起こしたので、付け加えておくと、かつて僕は君に、この一連の文章(「教養」の来た道)の、もう四年半近くも前の回(第10回:さやかに風も吹いてゐる......)において、上記のごとき戦争の時代の「運動会」の話を、例えば以下の太宰治(だざい・おさむ)の『津軽』の一節と絡ませながら、あれこれ聴いて貰(もら)った覚えがあるので、君の気が向いたら、再読を願えると有り難い。

 

教へられたとほりに行くと、なるほど田圃があつて、その畦道(あぜみち)を伝つて行くと砂丘があり、その砂丘の上に国民学校が立つてゐる。その学校の裏に廻つてみて、私は、呆然とした。こんな気持をこそ、夢見るやうな気持といふのであらう。本州の北端の漁村で、昔と少しも変らぬ悲しいほど美しく賑やかな祭礼が、いま目の前で行はれてゐるのだ。まづ、万国旗。着飾つた娘たち。あちこちに白昼の酔つぱらひ。さうして運動場の周囲には、百に近い掛小屋(かけごや)がぎつしりと立ちならび〔中略〕さうしていまはお昼の休憩時間らしく、その百軒の小さい家のお座敷に、それぞれの家族が重箱をひろげ、大人は酒を飲み、子供と女は、ごはん食べながら、大陽気で語り笑つてゐるのである。日本は、ありがたい国だと、つくづく思つた。たしかに、日出づる国だと思つた。国運を賭(と)しての大戦争のさいちゆうでも、本州の北端の寒村で、このやうな明るい不思議な大宴会が催されて居る。

 

ちなみに、この場で太宰治が「国民学校」と言っているのは、この当時の「小学校」の呼び名である。――と、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を繙(ひもと=紐解)くと、そこには「昭和一六年(一九四一)から同二二年〔一九四七〕まで行なわれた〔、〕わが国の小学校の名称。国民学校令に基づき、国家主義的な国民教育を主眼とした。義務教育年限は初等科六年・高等科二年(六~一四歳)の八年間、教科は国民科(修身・国語・国史・地理)を中心とし、理数科、体錬科、芸能科から成った」と述べられていて、この学校が従来の尋常小学校と高等小学校を改組して生まれた後、戦後の「学制改革」によって廃止されるまで、この国で丸六年に亘って存在していたことが分かる。もちろん、そこから生まれたのが今度は、君も僕も通った、新制の小学校と中学校である。

さて、このような話題を今回、僕が持ち出しているのは、言うまでもなく、君に岡松和夫(おかまつ・かずお)の『志賀島』の紹介をしたいからである。また、この小説の冒頭において主人公(hero=半神)の通っていたのが、上記の「国民学校」であったからであり、この箇所は前回、僕が君に報告を済ませておいた、あの瀧井孝作(たきい・こうさく)によって「名文」と評された「小学生時分の海洋訓練の志賀島行のところ」から始まっている。ただし、その「海洋訓練」の三日目(すなわち、最終日)になって、突然、クラスで一番、体格にも恵まれ、体力にも秀でており、将来は「相撲取」(すもうとり)になることを夢見ていた、友人の竹元啓が事故に遭い、その目が見えなくなり、やがて主人公の青柳宏の少年時代にも暗い影が差し始める所から、この小説はスタートを切っている。

小説の中では、この段階が「国民学校六年生」とあるから、それは昭和六年(1931年)に生まれた、ちょうど岡松和夫と同年齢の設定である。その限りにおいて、この小説が一種の、自伝(autobiography)であることは疑いがなく、そこから主人公が旧制の中学校(=県立福岡中学校)に入り、さらに高等学校(=官立福岡高等学校)を経て、今度は新制の大学(=東京大学)に進学する時点まで、この『志賀島』という小説は続いているけれども、それも作者の辿った人生行路と、まったく軌を一にしている。でも、このようにして戦争の影響で、次から次へと教育制度が変更され、その渦中で学校自体の名称から修業年限に至るまで、まるで猫の目のようにコロコロと切り替えられた世代の苦労には、さぞかし大変なものがあったに違いない、と僕は思うけれども、さて君は、いかがであろう。

具体的に言うと、この小説の主人公は当初、尋常小学校に入り、これが国民学校(初等科)へと改組された後、その国民学校を卒業し、そこから旧制の中学校に進むことになるのであるが、このようにして当時は、日本の中等教育(secondary education)が大きく、男子限定(!)の中学校と女子限定の高等女学校と、それから実業学校(=工業学校・商業学校・農業学校)に分かれていた次第。そして、このような「中等学校令」(昭和十八年→1943年)の公布によって、主人公の通う中学校の修業年限も、それまでの五年が四年に短縮され、そこから結果的に、この『志賀島』という小説にも「その年の春、宏は中学四年を修了して旧制福岡高等学校の一年生になっていたが、翌年は学制切替えで、また新制大学を受験せねばならなかった」......という叙述が含まれることにもなるのである。

ともあれ、このようにして度重なる、禍々(まがまが=曲々)しい戦争の時代に生まれ落ち、生まれ合わせ、お互いに父親が不在の家庭で育ち、やがて母親をも「自殺」や「絞殺」で失うことになる、この――青柳宏と竹元啓という二人の少年を中核にして、岡松和夫の『志賀島』は展開することになる。けれども、それは力説するまでもなく、この「十五年戦争」(1931年~1945年)という災禍の中に育った、すべての少年や少女の心に巣くわざるをえない、さまざまな喪失感や無力感や、さらには虚脱感や絶望感の表明でもあれば、代弁でもありえたのであって、そこから主人公の青柳宏のように、あえて「東京に出る」ことを選択する人間もいれば、むしろ「東京ば、じっと見よるばい」と、みずから故郷に留まり、留まらざるをえない、友人の竹元啓のような立場の人間もいた訳である。

なお、僕が前々回の末尾に掲げておいた、この小説の最後の場面に登場している「志賀島」は、この二人の少年......と言うよりも、むしろ「青年」の目には決して、お互いの肉眼(naked eye=裸眼)を通じて見える「志賀島」ではなく、それは逆に肉眼を閉鎖し、遮断することによってしか姿を表(あわわ=顕・現)さない、その限りでの「志賀島」であった訳であり、その意味において、この時、あえて「志賀島が見えるねえ。昔のままや」と呟き、それを「美しか」と言っているのは、あくまで友人の竹元啓であり、主人公の青柳宏ではない、という点は見逃されてはならない。言い換えれば、この小説のラスト・シーンに描かれている「志賀島」は、もっぱら前者の、閉じられ、瞑(つむ→つぶ)られ、塞(ふさ)がれた目に、靄(もや)って浮かび上がる「志賀島」でしかないのである。

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