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島と岬の話(第四話)――「教養」の来た道(249) 天野雅郎

芥川賞(正式名称:芥川龍之介賞)を取るとか、取らないとか、僕個人にとっては基本的に無意味な、無関係な話であるけれども、どうやら世の中には芥川賞が欲しくて、欲しくて仕方がなく、日ごと夜ごと、そのための努力を重ねたり、苦行僧のような生活を続けたりしている人も、いるらしいのである。――と書いて、ふと想い起こしたのは、今回も太宰治(だざい・おさむ)の逸話(anecdote)であって、ひょっとすると君も一昨年(平成二十七年→2015年)になってから、この......芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ)に私淑(シシュク)し、心酔した作家が「私に〔芥川賞を〕下さいまするやう」にと、あの和歌山県新宮市出身の作家、佐藤春夫(さとう・はるお)に懇願した手紙が発見されたニュースを、どこかで目にしたり、耳にしたりしたことも、あったのではなかろうか。

ちなみに、この時、太宰治が受賞を熱望したのは第2回の芥川賞であり、それは昭和十年(1935年)の上半期において、彼の候補作(『逆行』)が第1回(!)の芥川賞の受賞を逸し、続けて下半期は「二・二六事件」のために審査自体が中止となり、そのまま「該当作品なし」の結果に終わった折の出来事である。なお、このようにして振り返ると、もともと新人作家の短篇や中篇を対象にした文学賞であり、言ってみれば、単なる新人賞に過ぎなかったはずの芥川賞が、これほど世間の注目と人気を集めるに至ったのは、むしろ逆に、このような太宰治の「落選」の影響も無視できないのではあるまいか、と僕は思うけれども、さて君は、いかがであろう。また、この賞が戦後の混乱期に中断された際、この作家は俄(にわ)かの死を遂げることになるのであるから、これも皮肉な話である。

ところで、このようにして太宰治が異常なまでに、ことさら、ひたすら芥川賞の受賞を熱望していたことと、例えば仮に、たまたま君や僕が芥川賞を欲しくて、欲しくて、たまらなくなったとした場合、それを同一の熱意や願望の表明と評しても構わないのであろうか。と言ったのは、つい先日、三木清(みき・きよし)の『人生論ノート』を読み直していて、そこに昭和十三年(1938年)に彼が雑誌(『文學界』)に掲載した「名誉心について」の中の、以下のような一節が僕の目に留まったからである。――「名誉心と虚栄心とほど混同され易いものはない。しかも両者ほど区別の必要なものはない。〔中略・改行〕虚栄心は〔、〕まず社会を対象としている。しかるに名誉心は〔、〕まず自己を対象とする。虚栄心が対世間的であるのに反して、名誉心は自己の品位についての自覚である」。

あるいは「名誉心も、虚栄心と同様、社会に向っている〔、〕といわれるであろう。しかし〔、〕それにしても、虚栄心においては相手は「世間」というもの、詳しくいうと、甲でもなく乙でもないと同時に〔、〕甲でもあり乙でもあるところの「ひと」、アノニム〔anonym=匿名〕な「ひと」であるのに反して、名誉心においては相手は甲であり〔、〕或いは乙であり、それぞれの人間が個人としての独自性を失わないでいるところの社会である。虚栄心は本質的にアノニムである」......とも三木清は書いている。要するに、このような「名誉心」と「虚栄心」の違いが存在するとすれば、先刻の質問において太宰治が芥川賞の受賞を熱望したのは、それは「名誉心」なのであろうか、それとも「虚栄心」なのであろうか。そして、さらに君や僕の場合は、どちら側の熱意や願望なのであろう。

と、このような事態を振り返りながら、僕は目下、岡松和夫(おかまつ・かずお)が昭和五十一年(1976年)の下半期の芥川賞(第74回)を受賞した頃の、その前後の時期の作品のページを捲(めく)っている所である。感想から言うと、はなはだ面白い。特に、このようにして受賞作の『志賀島』が発表され、そこには奇しくも、かつて三木清の『人生論ノート』も掲載されていた、同じ『文學界』に収められた作品群――『墜ちる男』(昭和四十八年)『小蟹(ちいがね)のいる村』(昭和四十九年)『碧空』(昭和五十年)『人間の火』(昭和五十一年)を読み進めていくと、そこには当然ながら、この作家の「メイン・テーマ」(笑っちゃう、涙の止め方も知らない、20年も生きて来たのにね~♪)とでも呼ぶしかない、ある種の通奏低音(basso continuo)が鳴り響いているのであった。

とりわけ、僕が興味を持ったのは『小蟹のいる村』であり、この作品が『志賀島』に先立ち、昭和四十九年(1974年)の上半期の芥川賞(第71回)の候補作となったのは、なるほど、と思わせるのに充分であるし、それにも拘らず、なぜ『小蟹のいる村』ではなく、二年後の『志賀島』まで受賞が引き延ばされなくてはならなかったのか知らん、と僕には理由が、よく呑み込めないのも実情である。ともあれ、この作品の主人公(ユキ)は「戦争」で、みずからの「最初の夫」(太田黒安夫)を亡くし、戦後には「二度目の男」(北森暁)も「結核」で失い、とうとう彼女自身も同じ病に罹(かか)り、故郷に戻り、死を迎えつつあった次第。ところが、その終末の近づいた、ある日のこと、思い立って彼女は以前、夫と訪れた「滝場」の「日の丸」を見るために、深い山道へと分け入っていく。

 

滝場を見たいと思った。昔、自分の若い健康な肉体が水に打たれた場所だった。

彼女は滝の間近まで歩いて、「あれ」と驚いた。一人で苦労してきた歳月が不意に消えてしまって、戦争中と〔、〕そっくりの風景が眼の前に拡がっているのだった。滝の周囲の樹の枝から枝に紐が渡されて、いくつもの日の丸の小旗が結びつけられている。

戦争が終ったから何かが変るということの方が不思議だった。ユキは長い間〔、〕自分の肉体から失われていた奥深い歓喜が不意に甦るのを感じた。

 

残念ながら、この場は紙幅の都合もあって、君には細(こま=小間)切れの引用となってしまい、恐縮である。本当は、もう少し、この主人公の置かれている状況や、彼女の生まれ、育ち......今、まさに死を迎えようといている「村」(=小蟹のいる村)の習俗や、その死生観(=「あの世」観+「この世」観)について、僕は君に、あれこれ話を聴いて貰(もら)いたいのであるが、ご容赦を願いたい。でも、もしかすると君には、このようにして人間――と言うよりも、君と僕と同じ、まったく(ほとんど?)変わらない「日本人」が、いまだに「昭和二十何年かの秋」には、ある種の「姥捨(うばすて)山」にも似た、しかも、そこには老若男女の区別さえない、過酷な「終末期医療」(ターミナル・ケア)と向かい合っていたこと自体、驚き以外の何物でもないのかも知れないけれども。

言い換えれば、僕が先刻、君に話題として持ち出した、三木清であっても、太宰治であっても、彼らのような哲学者や小説家の生涯が、どこかで最近の「日本人」には近づき難く、何かしら、ここから先は踏み込むことの叶わない、立入禁止(Keep Out)の札を突き付けられているかのような気がしてくるのは、なぜなのであろう。もちろん、それが関係者以外、立入禁止(Authorized Personnel Only)なのか、それとも無断、立入禁止(No Trespassing)なのかで、かなり事情は違うけれども、それでも君や僕が岡松和夫の『志賀島』や、この『小蟹のいる村』において繰り返されている、以下のごとき主人公たちの「美しか」という言葉に接すると、少なくとも僕個人は、この半世紀ばかりの間に「日本人」の多くが見失った、とても大切なものを思い、深い悔恨に浸らざるをえないのである。

「美しか」ユキは呟いた。

その時、ユキは〔、〕もう自分の足が水流に逆らって歩くのを感じていた。

ユキの眼の前に滝が迫った。ユキは濡れて黒々と光る岩の狭間(はざま)に立っていた裸身の自分を思い出していた。太田黒安夫や北森暁のために、滝に打たれに来たような幻覚が起る。彼らは何処かで生き続け、戦い続けているように思えた。死ぬ時は一緒やけん、ユキは〔、〕そう思った。

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