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奥野健男論(第一回)――「教養」の来た道(253) 天野雅郎

文芸時評と称される、行為と言おうか、様式と言おうか、それが「日本独特」の文芸評論(literary criticism=文学批評)の一領域であり、その起源は「大正時代」に遡りうるものであることを、僕が再確認したのは、かれこれ20年余りも前に奥野健男(おくの・たけお)の『越境する文芸批評』(1995年、平凡社)を読んだ時のことである。と言ったのは、それまで僕は文芸時評が、きっと日本人の大好きな、英語の literary comment とか、あるいは literary review とかの翻訳語に過ぎず、これを日本人は、いつものように受け売りで使っているに違いない、と思い込んでいたからである。でも、よく考えてみれば、このような文芸時評が時評として成り立つためには、それを支える文芸雑誌が、好くも悪くも、毎月、定期的に出版されることが必要であり、その条件であった訳である。

その意味において、そもそも文芸時評は20世紀の、いわゆる「メディア(media=情報媒体)社会」の到来を俟(ま)って、はじめて花を開くことが出来たのであって、その起源を19世紀の最末年(明治二十九年→1896年)の『めさまし草』(めさましぐさ)の刊行や、その中の「三人冗語」(森鷗外・幸田露伴・齋藤緑雨)に遡らせることは可能であっても、それが本格的に実を結ぶのは、やはり商業的な、文芸雑誌(literary magazine)や総合雑誌(general magazine)や、要は「雑誌」(マガジン→軍需用倉庫!)の出現を始発とせざるをえない。例えば、私たちの国では明治三十二年(1899年)に創刊(と言うよりも、改題)の『中央公論』や、明治三十七年(1904年)に創刊の『新潮』が、その内の最古参であり、これに続くのが、大正八年(1919年)の『改造』と言った所であろう。

もっとも、このような雑誌が文字どおりに、その名を『文藝』と銘打つことが出来たのは、はなはだ画期的(epoch-making)でもあって、その点に即して言えば、この『文藝』(改造社→河出書房)という文芸雑誌が創刊された昭和八年(1933年)は、私たちの国の雑誌文化の画期(エポック)と評しても過言ではなく、この同年、相前後して創刊された『文學界』(文化公論社→文藝春秋社)と合わせて、君や僕の記憶に留められて、しかるべきであろう。とは言っても......と、ここから恒例の、いつもの僕の爆弾発言を、君には聴いて貰(もら)わなくてはならないのであるが、もし仮に、このような雑誌文化と文芸時評が一蓮托生(イチレン・タクショウ)の、いわゆる同じ穴の、狐(きつね)や狸(たぬき)や狢(むじな)であるならば、その最期も、一蓮托生であるのが道理であろう。

と言ったのは、実は先刻、君に紹介を済ませたばかりの、奥野健男の『越境する文芸批評』には、その冒頭に「大世紀末に向かう文学」とか「求め続けた異相の文学」とか、あるいは「文学の命脈はどこに」とか「消える真剣な文学者」とか、このような辛辣(シンラツ)な表題の、刺々(とげとげ)しくもあれば、生々(なまなま)しくもある、文芸時評が並べられ、突き詰めて言えば、この本の出版された年(平成七年→1995年)には、すでに「今日の文学は、未来ではなく、過去によって支えられている」という気配が濃厚であったからである。そして、この三年前(平成四年→1992年)には、どうやら日本の文芸時評の歴史において最も長い、15年半にも及ぶ連載(『産経新聞』)を彼は打ち切り、やがて二年後(平成九年→1997年)には、その生涯をも閉じることになる。享年71歳。

 

それにしても、ぼくが「文芸時評」を担当した一九七六年からの十六年間は、日本文学にとって全くひどい、悪い時代であったと、終わってから痛切に思う。一九五〇~七〇年と、戦後日本文学は、ようやく世界の現代文学の第一線にならび、国際的にも認められるほどの高揚と充実とを示したのに、三島由紀夫、川端康成の自殺の頃から、文学は急速に停滞し、空洞化し、頽廃しはじめた。文学者たちは志を喪い、作品に活気がなくなり、若者たちの小説離れ、活字離れがはじまり、文学の栄光は地に堕ち、見捨てられる。(「求め続けた異相の文学」)

 

ところで、このように「日本の文学全体が、文学への志を失い、含羞〔ガンシュウ〕の心を忘れてしまったようである」(同上)と、深々と溜息を吐(つ)いている、この文芸時評家が実は、同時に多摩美術大学で35年余りにも亘って文学の講座を担当していたことや、おまけに彼の専門が、むしろ自然科学や化学技術であったことを、よもや君は、まったく知るはずもないであろうが、それよりも何よりも、僕が今回、君に奥野健男の話を始めたのは、何と――この、いっぷう変わった文芸時評家が、おそらく世間で言う所の、奇人や変人の宝庫(......^^;)である和歌山に、深い縁(ゆかり)を持つ人物であったからに他ならない。なお、この事実を僕が、はじめて知ったのは、ちょうど僕が和歌山に移り住む直前、刊行されたばかりの『芸術の辺際』(1990年、阿部出版)を通じてであった。

と、このような経緯自体は、よく憶えているのであるが、はたして僕が彼の、この「文芸評論」と呼ぶべきなのか、それとも表題どおりに「芸術評論」と称するべきなのか、ともかく「演劇」から始まって、その後には「建築」「住居」「都会」「音楽」「美術」「科学」「技術」「原風景」「旅」という項目が並べられている、この「評論集」(上巻)の末尾の一文(「ふるさとへの旅・熊野紀行」)を最初に読んだのは、すでに僕が和歌山に移り住んでからのことであったのか、いまだ移り住む前のことであったのか、はっきり覚えていないのが実情である。が、もう当時は僕自身の関心も、狭い意味の「文芸」や「文学」や、あるいは「哲学」からは完全に離れており、より広い、本来の意味における「哲学」や「文学」や「文芸」を、探し求める営みへと向けられていたことは疑いがない。

ちなみに、この本の表題に用いられている「辺際」という言い回しは、どうやら奥野健男が「あとがき」の中で述べているように、いわゆる「学際」や「芸際」という語の連想から持ち出されたものであったらしく、おそらく「へんさい」と濁らずに読むのであろうが、これを「へんざい」と読んでも一向に構わないし、ひょっとすると後者の方が、この本の内容には相応しいのかも知れないね。なぜなら――と、ここで僕は君に、恒例の『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の「辺際」(へんさい・へんざい)の語釈を紹介しておくけれども、そこには「時間、空間、程度などで、これ以上ない〔、〕という限界。はて。かぎり」と書かれていて、この本が通常一般の「芸術」という枠組を大きく踏み越えて、その「辺際」への「遍在」の意志を、はっきり打ち出していたことも確認できる。

さて、そのような『芸術の辺際』において、君や僕が何の予備知識もなく、この「ふるさとへの旅・熊野紀行」を読み進めると、いったい大正十五年(1926年)に東京で生まれた、この文芸時評家が和歌山と、どのような繋がりを具体的に持っていたのかを、あれこれと推測することは困難であったに違いない。そこで、その答えを同じ、この『芸術の辺際』の「人権・父・わがルーツ」から抜き出しておくと、彼の父親は奥野健一(おくの・けんいち)と言って、かつて最高裁判所の判事を務めた人物であったが、その生まれは和歌山の「紀州田辺」であり、この一文は昭和五十九年(1984年)に亡くなった「父」のために、その息子が「わがルーツ」を訪ねて「熊野」へと赴き、そこに埋葬されている、祖父母の遺骨を東京に持ち帰り、父親の遺骨と「同じ墓」に改葬した折の記録であった。

 

この六月十日、紀州田辺に行った。〔中略〕五月六日〔、〕八十五歳で死去した父と一緒に、祖父母も同じ墓に埋葬しようという母の気持ちに家族も同意したのである。それに、田辺には墓を守ってくれる親戚も殆どいなくなってしまった。〔改行〕朝早く着いて住職に奥野家代々の墓に脱魂の陀羅尼経〔だらにきょう〕をあげてもらい、雨の中、石をどけて掘りはじめた。はじめは軽い事務的な気持でおこなったのだが、墓を掘りすすむにつれ、重苦しい気持ちになって来る。〔中略・改行〕祖父〔、〕奥野健太郎〔おくの・けんたろう〕は大正二年、五十歳で死に土葬であった。三時間掘っても遺体があらわれぬ。あきらめかけたとき、遺体が砂地の中からあらわれた。海に近い田辺の墓地は、砂地故に遺骨も清々しい。熊野の地では骨壺を用いず、骨を直接〔、〕大地に還す習慣であるらしい。

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