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奥野健男論(第二回)――「教養」の来た道(254) 天野雅郎

前回、僕は君に突然、奥野健男(おくの・たけお)の話を始め、彼を「文芸時評家」と呼んでおいたのであるが、もともと文芸時評は文芸評論の一領域であるから、より広く、彼は「文芸評論家」と称されるのが相応しいし、実際、そのようにして「今まで〔、〕ぼくは自分を頑固なまでに文芸評論家と規定して来た」と、彼の『芸術の辺際』(1990年、阿部出版)の「あとがき」には述べられている。ただし、この「文芸評論家」という語も結果的に、奥野健男にとっては納得の行く表現ではなく、やがて彼は「文芸評論家」とは「文芸解説者」に過ぎず、むしろ、この「文芸解説者」である所の「文芸評論家」を脱して、ただの「評論家」になることが、彼の最終的な希望でもあったのであり、この点は彼の『越境する文芸批評』(1995年、平凡社)の中で、次のように「宣言」されている。

 

評論家に文芸とか、演劇とか美術とかいう名のついた評論家は居るべきではない。それは解説者である。評論家は〔、〕あらゆる対象を、それが人間の行為に関する限り、科学でも技術でも哲学でも政治でも思想でも経済でも、そして〔、〕あらゆる芸術をも論じるべきだ。そういう統一された評論というジャンルを打ち立てたいと頑固に主張してきた。〔中略・改行〕そして、演劇や美術や音楽あるいは映画や舞踊まで批評しようとする根本的な原因は〔中略〕文芸作品〔、〕特に小説の衰弱と頽廃にある。これは文芸批評の危機に〔、〕ほかならない。

 

と、このようにして話は、ふたたび前回に引き続き、日本文学の陥っている「停滞」化や「空洞」化や、あるいは「衰弱」化や「頽廃」化へと、舞い戻っていくのであるが......要は、奥野健男にとって「文芸批評とは解説や紹介ではなく、あくまでも〔、〕それ自体〔、〕文学であり、芸術である」という信念によって、強固に支えられている訳である。――「ある〔、〕すぐれた文芸作品や文学者に接した時の感動を分析し一般化し、自己主張、自己告白を通じ〔、〕その葛藤と緊張の中に表現する。小説の小説とも言える芸術である。〔中略〕文芸批評は〔、〕れっきとした芸術である。同じ言語の芸術を同じ言語によって批評する〔、〕文芸批評は文芸であり、文芸批評家は文学者とされてきた。それも〔、〕もっとも尊敬される芸術家としてである」(「綜合批評をあえて試みる」宣言)。

そして、そのような「文学者」や「芸術家」の名を、小林秀雄、河上徹太郎、保田與重郎、埴谷雄高、福田恆存、花田清輝、平野謙、本多秋五、吉本隆明、江藤淳......と、次々と奥野健男は並べ立てるのであるが、おそらく君を始めとする、昨今の大学生が彼らの名を知っていたり、その本のページを、わずかでも捲(めく)ったりしている可能性は、はなはだ期待薄であろう。おまけに、このような「文学者」や「芸術家」を産み出すためには、その基盤に、奥野健男の言う「感動」(impression)を伴った、何らかの読書体験が必要であり、それを表現(expression)へと齎(もたら)すのが、単純に言えば、文芸批評の成立過程でもあった次第。ところが、そのような読書体験自体が、困ったことに、君や僕の生きている、この「現代日本」には、根本的に欠落しているのではあるまいか。

その理由の一つ(最たるもの?)として、奥野健男は「同時代に全力をあげて批評の対象として取り組める文学者、文芸作品が見当たらなくなってきたためだ」(同上)と述べているけれども、それは僕に言わせれば、あくまで二次的な現象であり、むしろ僕個人が気を揉(も)むのは、もう一つ、彼の漏らしている感想の方である。すなわち――「今の日本ほど、芸術や芸能が〔、〕おたがいに無関心で、てんでばらばらに存在している状況は〔、〕めったに見つからない。詩、小説、演劇、舞踊、音楽、映画、美術、デザイン、建築などが〔、〕それぞれの分野の壁の中に小宇宙をつくり幕の内弁当のように区別(くわ)けされ存在している。そして〔、〕それが当たり前だと〔、〕それぞれ自足し、その中に専門の評論家まで居る。〔改行〕なぜ〔、〕そんな変な状況になったのだろう」。

まあ、このような状況を「変な状況」として認識できるのかどうか、それ自体が一種の「世代」論でもあれば、その「断絶」論でも、ありうるのであろうが、僕のような老頭児(ロートル)に言わせれば、奥野健男の言う「文学者」や「芸術家」を、ここで仮に「哲学者」と置き換えてみれば、これほど理解の容易な話はないのであって、そもそも哲学は哲学の歴史と、その産物への「感動」から生まれ、これを「自己主張」や「自己告白」という形で、そこに「含羞」を伴いながら表現する際の、態度や方法であったはず......なのに、アレアレ、ふと周囲を見回すと、そこには奥野健男と似た、ほぼ同じ言い回しが成り立ってしまうのであった。――「最近の文芸批評家〔=哲学者〕は芸術家ではなく学者、研究者、解説者へと変質していく。文芸批評〔=哲学〕は芸術でなくなりつつある」。

ところで、もう少し経ったら大学も、しばらく「お盆休み」を迎えることになる。と言うことは、この「奥野健男論」も暫時、休筆をせざるをえないから、僕は君に前回、彼が「わがルーツ」を訪ねて「紀州田辺」に赴(おもむ=面向)いた折の話にも、一応の休止符を打っておく必要がある。そこで、まず彼の祖父の奥野健太郎(おくの・けんたろう)についてであるが、この祖父は『芸術の辺際』に従えば「弁護士で県会議員で、田辺町長を二期つとめた」人物であった由(よし)。このような弁護士や裁判官の家系から、文芸評論家が登場すること自体、不思議な気がしないではないが、その理由は奥野健男によると、彼の母親が「明治生まれであるが、東京出身で、日本女子大の国文科を出た〔、〕当時モダンな文学少女であった」(「明治のおかあさん」)ことに起因するようである。

この「おかあさん」に関しては、また次回以降、触れる予定であるので、この場では彼の祖父と、さらに父親の話を続けておくと、どうやら彼の祖父は「若い頃〔、〕百姓一揆を指導したり、〔中略〕ハワイ独立運動に参加したりした熱血漢であった」らしく、地方新聞(『牟婁新報』)の発起人にもなれば、あの南方熊楠(みなかた・くまぐす)と同様に「いつもは裸で暮らしていた」ようであって、その血を受け継ぎ、彼の父親も「裁判官には珍しい野人であった」と、この「評論家」は懐かしんでいる。ともあれ、そのような「熱血漢」の祖父は大正二年(1913年)に亡くなり、また「野人」のごとき父親も昭和五十九年(1984年)に亡くなって、この年、この二人の遺骨と祖母の遺骨を合わせて、東京の墓地に葬るために、奥野健男は和歌山への「思いのほか疲れる旅」をしたのである。

さて、これが『芸術の際辺』に収められている、彼の30年以上も前の、その名の通りの「人権・父・わがルーツ」への旅であったが、これと好対照であったのは、もう一つ、僕が前回、君に紹介を済ませておいた、こちらは40年近くも昔の、彼の「ふるさとへの旅・熊野紀行」である。こちらの方は、彼が「この正月」......と奥野健男が記しているのは昭和五十三年(1978年)の時点であるが、はじめて「妻子を連れて、中遍路〔なかへじ〕を経て熊野三山に至り、帰路の大遍路〔おおへじ〕をめぐる途中、さらに南紀の山間部にわけいるという念願の旅に出た」際の記録である。――が、この旅自体、すでに当時の「観光ブーム」の渦中での、いわゆる「いい日旅立ち」でもあった訳であり、そこに複雑な思いを抱いたからでもあろう、この「評論家」の声は逆に、ひどく華やぎを増している。

 

南紀は実は〔、〕ぼくの父祖の地なのである。東京に生まれ育ったぼくではあるが、幼い頃から何度も訪れているし、それに〔、〕ばあさん子だったぼくは、祖母から紀州弁で南紀の昔噺〔むかしばなし〕から噂話まで〔、〕どのくらい聞かされたことか。いつかぼくの中に〔、〕なつかしい故郷は南紀だという感情が形成されてしまった。それゆえ、父の生まれた南紀の城下町〔、〕田辺、祖父の生まれた周参見の山奥〔、〕大都河村小河内(現:すさみ町)、祖母の生まれた梅林で有名な南部、本家のある三舞村口ヶ谷(現:日置川町)、叔父の居た新宮等々、これらの南紀の風物や人情を妻や子供たちに見せたいという気持ちも、ぼくの中にあった。

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