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奥野健男論(第三回)――「教養」の来た道(255) 天野雅郎

かなり小さな、でも、とても大きな地名の説明から、今回は話を始めよう。前回、僕が君に紹介した、奥野健男(おくの・たけお)の『芸術の辺際』(1990年、阿部出版)に登場している「紀州田辺〔たなべ〕」や「梅林で有名な南部〔みなべ〕」や、あるいは「新宮〔しんぐう〕」については、あれこれ説明の必要はないであろう、と思うけれども、おそらく君が、彼の祖父の生まれた「周参見〔すさみ〕の山奥〔、〕大都河〔おおつがわ〕村小河内〔おかうち〕」や、その「本家のある三舞〔みまい〕村口ヶ谷〔くちがたに〕」のことを、よもや知っているはずは......ないであろうから、この二つの場所の地名に関して、まず僕は君に、文字どおりの道案内をしておくのが得策ではないか知らん、と考えている所であるが、振り返ってみると、僕自身が道案内を必要とする側でもあった次第。

と言う訳で、いろいろ手許の地図を開いてみると、ありました、ありました、和歌山県西牟婁(にしむろ)郡すさみ町小河内。この場所は、かつて明治二十二年(1889年)に私たちの国が、いわゆる「大日本帝国」と呼ばれていた頃、そこに「町村制」が施行された際、この小河内を始めとする九つの村が、お互いに集まって、その名も大都河村となったのが、そもそもの成り立ちのようであり、その名称も同地の、幾つかの「河」に由来しているらしい。そして、その状態で65年余りの時を経た後、今度は昭和三十年(1955年)になってから、周辺の佐本(さもと)村と共に周参見町に合併され、現在の「すさみ町」が誕生したことになる。ちなみに、廃止時の総人口は、昭和二十五年(1950年)の国勢調査を踏まえれば、小河内村が1201人、佐本村が1434人、周参見町が5854人であった。

このようにして振り返ると、君や僕の生きている、この「現代日本」にも幾つかの、まさしく転機(ターニング・ポイント)は存在しているのであって、それを抜きにして、君や僕が軽々しく、薄っぺらな「現代日本」に現(うつつ)を抜かすのは間違っている、と僕は思うけれども、さて君は、いかがであろう。なお、上記の大都河村小河内で、奥野健男の祖父、健太郎が生まれたのは、その没年(大正二年→1913年)と享年(50歳)から数えて、おそらく文久三年(1863年)のことであったろうが、これは徳富蘇峰(とくとみ・そほう)や清澤滿之(きよざわ・まんし)や原田直次郎(はらだ・なおじろう)や志賀重昻(しが・しげたか)と、同年の生まれになるし、この年に亡くなったのは、逆に新選組の芹澤鴨(せりざわ・かも)や天誅組の吉村寅太郎(よしむら・とらたろう)である。

 

この県道〔38号→すさみ古座線〕は、県会議員だった〔、〕ぼくの祖父や大伯父が、明治時代〔、〕上京し、座り込み、切腹の真似までして〔、〕ようやく予算をせしめ、ひらいた南紀山中の唯一の道であるのだ。数年前まで、岩を手掘りした青ノ洞門のような狭いトンネルも残っていた。すさみから入り、すさみ川沿いに〔、〕また山の滝の多い曲りくねった道を、三十分走っても一軒の家にも、一人の人にも会わない超過疎地帯である。〔中略〕山も谷も〔、〕きわまったところに、ようやく数軒、石垣を築いた民家があらわれる。そこが大都河村大字〔おおあざ〕小河内だ。そこから半キロ、支道に入った字〔あざ〕出谷〔でたに〕、その急斜面に元禄時代や〔、〕それより古い〔、〕わが先祖のこけむした墓石が並んでいる。

 

なお、これに対して「本家のある三舞村口ヶ谷」の方は、これまた「町村制」の施行によって、この口ヶ谷を含む九つの村が集まって、三舞村となった後、これが廃止されるのは昭和三十一年(1956年)の時点であるが、この村名自体は日置川(ひきがわ)の東に聳える、三舞山に由来している。ご参考までに、ふたたび廃止時の総人口を挙げておくと、上記の調査では口ヶ谷村が2018人であり、これに2758人の川添(かわぞえ)村が加わって、5463人の日置(ひき)町に合併され、その名を日置川町と改めることになるのが順序であるが、この日置川町も平成十八年(2006年)になってから、今度は白浜町と合併し、現在に至っている。したがって、前回の「ふるさとへの旅・熊野紀行」の引用で、この三舞村口ヶ谷を、奥野健男が「現:日置川町」と書き記していたのは、そのためである。

さて、いささか長い、細かい説明にはなったけれども、もともと「大日本帝国」のスタートの段階において、和歌山県に存在していたのは市が一つ(=和歌山市)と、町が二つ(=新宮町+田辺町)と、それ以外は計229の村であった訳である。そして、この内の新宮町が、和歌山県で二番目の市になるのが昭和八年(1933年)であり、その翌年(昭和九年→1934年)には海南市が、それから八年後(昭和十七年→1942年)には田辺市が、それぞれ発足し――これ以降、順番に御坊市(昭和二十九年→1954年)から橋本市(昭和三十年→1955年)へと、ひいては有田市(昭和三十一年→1956年)へと、一年刻みで誕生し、これに近年、紀の川市が平成十七年(2005年)に、岩出市が平成十八年(2006年)に、それぞれ付け加わって、目下、和歌山県には全部で九つの市が存在していることになる。

と、このようにして『わかやま何でも張』(2016年第3版、和歌山放送)に記載されているような、和歌山県の歴史の基礎の、また基礎を、僕は君に解き解(ほぐ)しているのであるが、それは本来、この「ふるさと教育副読本」が和歌山県教育委員会の手によって編集され、和歌山県下の中学生全員に配布され、授業で活用されているはずであるにも拘らず、そのことを我が家の、中学生の娘に訊くと、その気配は一向になく(......^^;)これは一体、何ぞ(→何ぞ何ぞ→謎々)やと、僕自身が最近、頭を捻(ひね)っているのと、それに輪を掛けて、この『わかやま何でも張』で「わかやま未来学」の試験問題を作ったら、きっと和歌山大学の学生諸君の、ほとんどは不合格(落第点!)になってしまうに違いない、という現実をヒシヒシと感じ、頭が痛くて、痛くて、仕様がないからである。

閑話休題。このようにして前掲の、市町村の数字に立ち返ると、和歌山県では戦後、昭和二十二年(1947年)に「地方自治法」が制定されて以来、当然のことながら、それほど市の数や町の数に、大きな変動は見受けられないし、それは特段、和歌山県に限った話ではない。が、その一方で、まさしく信じ難い、驚くべき変動が生じているのが「村」(音読→ソン、訓読→むら)であって、この状況を一口で言うと、結果的に和歌山県は60年もの、ひいては70年もの時間を使い、計171もあった村を、たった一つの村(=北山村)に削減した、と言うことにもなるであろう。まあ、このような事態を通常、君や僕は「昭和の大合併」や「平成の大合併」という名で呼んでいるが、それは存外、他人事ではなく、むしろ君や僕の生活や人生の根幹へと、直結する問題でもありえたのではなかろうか。

なにしろ、もともと村(むら)とは君や僕が、そこに群(むら)がり集(つど)い、群(むれ)をなして集(あつ)まり、住(す=巣)むための場所であり、大きかろうと、小さかろうと、そのような場所を見つけ出し、それを確保することが――突き詰めれば、君や僕の生活や人生の、最終的な目標(goal=決勝点!)でもありえた訳であり、そのような目標を端的に、君や僕は「幸福」とも呼んでいる。裏を返せば、そのような場所を見つけ出すことが叶わず、確保できない時、君や僕は必然的に、奥野健男の感じ取った、あの「形容しがたい〔、〕文明の宿なしの寂しさ」(同上)にも浸らざるをえないであろう。その意味において、残念ながら、この昭和五十三年(1984年)の「ふるさとへの旅・熊野紀行」は最後まで、彼にとっての「いい日旅立ち」とは、なりえなかったのであった。

 

南紀は実は〔、〕ぼくの父祖の地なのである。〔中略〕それゆえ、父の生まれた南紀の城下町〔、〕田辺、祖父の生まれた周参見の山奥〔、〕大都河村小河内、祖母の生まれた梅林で有名な南部、本家のある三舞村口ヶ谷、叔父の居た新宮等々、これらの南紀の風物や人情を妻や子供たちに見せたいという気持ちも、ぼくの中にあった。〔中略・改行〕けれども〔、〕はじめての〔、〕なまの自然の中で嬉々として戯れていた子供たちも、南紀の旅が一週間も続くと、東京の〔、〕おうちに帰ろうよと言い出す。現代の都会人は、いかに自然が美しくても、過疎の環境には〔、〕もう耐えられなくなっているのであろうか。白浜空港から一時間半の東京への空の旅の間、ぼくは形容し難い〔、〕文明の宿なしの寂しさを感じたのであった。

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