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奥野健男論(第五回)――「教養」の来た道(257) 天野雅郎

観光と書いて、光を観る、と読む。――この時点までは、まあ牧歌的(pastoral=田園的)な、のどかな旅の風景を思い浮かべることも可能であろうし、そこにベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)の交響曲(第六番)の『田園』(Pastorale,1808)や、あるいは後世、これに因(ちな)んで、そこに同じ名を冠せられることになった、例えばブラームス(Johannes Brahms)やブルックナー(Josef Anton Bruckner)や、さらにはドヴォルザーク(Antonín Dvořák)やシベリウス(Jean Julius Christian Sibelius)の、それぞれの「田園交響曲」を連ねてみても、それを衒学的(ゲンガクテキ→ペダンチック)であると言って、非難されるほどのこともないはずである。が、その上に調子に乗って、ついついアンドレ・ジッド(André Gide)の『田園交響楽』(La Symphonie pastorale,1919)まで、上乗せをしたりすると、たちまち雲行きは怪(あや!)しくなるから、ご用心。

と言ったのは、そもそも「観光」(音読→カンコウ)とは『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の「語誌」にも述べられているように、まずもって中国の「漢籍では、もともと国の威光を見る意で、国の文物〔=文化的産物→宗教・芸術・学問・法律etc.〕や礼制を観察するという意味があった」のが本来であり、これが「日本でも中世以降〔、〕ほぼ同様の意で用いられてきた」のが順序である。したがって、ここから『日本国語大辞典』が「風俗、制度等を視察すること。また、他国、他郷の景色、史跡、風物などを遊覧すること。観風」という語釈を掲げた後、これが「現在のような」使い方をされ、やがて「単なる遊覧の意味で用いられるようになるのは、比較的新しく、明治期後半〔=1890年代〕からである」と書き添えているのは、そのような歴史の経緯を踏まえているからでもあった。

要するに、このようにして「観光」とは、それが一見、光を観る、と訓読されてしまうことから、そこに君や僕は目下、文字どおりに長閑(のどか)な、長く、閑(しずか)な時間の経過を想定したり、ゆっくりとした、おだやかな旅の風情(フウジョウ→フゼイ)をも、そこに感じ取ったりして......しまうのであるけれども、それは少なくとも近代以降の、ようやく20世紀に入ってからの語感であり、習慣であって、その起源を遡ると、むしろ「観光」の「光」(音読→コウ、訓読→ひかり)とは権威的で、威圧的な、ある特定の場所の「威光」をこそ指し示す語であったことが見逃されてはならない。事実、白川静(しらかわ・しずか)の『字訓』(1987年、平凡社)に従えば、このようにして「国語の「ひかり」は電光〔=雷〕を形容する語から出ており、神の光を示す語であった」由(よし)。

言い換えれば、君や僕が今も、例えば神威や霊威という形で使用している、神や霊の力(=威力)と勢い(=威勢)を、そのまま一目で、容易に納得させるものこそが「威光」であって、そのような神や霊のパワーを、まさしく目(ま)の辺(あた=当)りにすることの叶う場所が、いわゆる「パワー・スポット」と呼ばれる場所でもあった訳である。その意味において、この「威光」の「威」(音読→イ、訓読→おどし)という字が、元来、そこに女(+戉=威)の姿を包み込んでいる(と言うよりも、隠し持っている)点は興味深く、これを安直に、女を威嚇(イカク)したり、威脅(イキョウ)したりする行為ではなく、むしろ女の、威容に満ちた状態をイメージするものであると考えた方が、はるかに実情に即しているのではあるまいか、と僕は思うけれども、さて君は、いかがであろう。

ところで、このような話を今回、僕が君に持ち出したのは、実は先刻来、奥野健男(おくの・たけお)の「遺作」である『文学のトポロジー』(1999年、河出書房新社)が、ちょうど僕の膝の上に乗せられているからに、ほかならないのであるが、この「遺作」という語を英語で言うと、それは posthumous work という言い方になるけれども、それがラテン語の「死後出版」(postumus)に由来すると同時に、そこには「つち」(humus)という意味が重ね合わされていたことも、ぜひとも君には憶えておいて貰(もら)いたい。なぜなら、この「遺作」は奥野健男にとって、彼が「トポロジー」(topology→位相幾何学)という語を使い、これを文学へと応用し、そこに一種の地形学や地勢学を、空間的にも時間的にも、構想しようとしていた折の、突然の「遺作」となってしまったのであるから。

例えば――と、ここから僕は奥野健男の、ふたたび「ふるさと」でもあれば「わがルーツ」でもあった、和歌山のことを君に聴いて欲しいのであるが、今回は彼の「父親の母、つまり父方の祖母」にも、ご登場を願うことにしよう。彼女は、僕が前々回、君に紹介を済ませておいた通り、あの「梅林で有名な南部」で生まれ、やがて奥野健男の祖父と結婚して「紀州田辺」に移り住み、この「熱血漢」の没後、さらに「東京の家、ぼくにとっての〝生誕の家〟にひきとられ〔、〕やって来た」女性であった。そして、その「家の中で〔、〕いちばん日当りのよい、南に縁側が〔、〕東に大きな窓のある〔、〕床の間付き、仏壇付きの四畳半の隠居部屋」で、いかにも「紀州育ち」の女性らしく「悠々と〔、〕時にはヒステリックに、躁鬱〔ソウウツ〕的に威厳をもって暮らしていた」のであった。

 

その部屋に入ると〔、〕朝は読経〔どきょう〕の木魚〔もくぎょ〕の音が聞こえ、線香の香りがし、三味線と自動肩もみ器と煙管〔きせる〕とラッパ型ラジオがあり、夏も五徳〔ごとく〕の炭火に鉄瓶が湯気を出している〔、〕長火鉢の抽出〔ひきだし〕から郷土の那智黒〔なちぐろ〕などの飴や、大阪へ嫁に入った娘の家がつくっている昆布飴や、中村屋のカリン糖や、金平糖〔こんぺいとう〕などの駄菓子をとり出し〔、〕半紙に包んで、おめざ〔原文:傍点→お目覚め〕として袖やエプロンのポケットに〔、〕しのばせてくれた。祖母の部屋、〝生誕の家〟の夢の中で今でも遊びに行ける。

 

さて、いかがであろう。このような「部屋」(room=空間)が、おそらく明治時代の初年に生まれたであろう、奥野健男の祖母の居室であったことに対して、君は興味を持つ側であろうか、それとも一向に、このような「おばあさん」の日常生活には関心を催さない側であろうか。まあ、どちらでも構わないけれども、僕のような老頭児(ロートル)になってくると、だんだん女性も若い頃よりも、いわゆる年増(としま)や、それどころか大年増(......^^;)の方が、はるかに面白く、魅力に感じるのは確かであり、事実、このようにして和歌山で産声(うぶごえ=初声)を上げ、何の因果(=原因+結果)か東京に移り住み、そこで不運にも、とうとう「戦争末期の昭和二十年六月に死んだ」(「人権・父・わがルーツ」)この「紀州育ち」の女性のことが、思いの外、気に掛かるのであった。

とりわけ、このようにして奥野健男の「生誕の家」でもあれば、ひいては「夢幻の家」ともなった、この「原風景」の中で、いつも「祖母の居場所は、隠居部屋か、縁側の前の花壇か、台所の隣の暗い茶の間か、二段低い五右衛門風呂〔ごえもんぶろ〕の鉄釜の風呂場にいる姿しか浮かばない」――と、先刻の『文学のトポロジー』の一節に続いて、奥野健男は述べているけれども、何とも印象的なことに、これに先立つ『芸術の辺際』(1990年、阿部出版)を振り返ると、この「紀州育ち」の女性は彼女の、これまた「原風景」に相当するのであろうか、遠い和歌山の「つち」(humus)で実った柿の実から、その種を採り、これを庭に植え、あたかも自分自身の「遺作」(posthumous work)ともした次第。残念ながら、その実の熟するのを待たず、彼女その人は、亡くなってしまうのであるが。

 

東京の山の手の渋谷〔しぶや〕界隈〔かいわい〕にある〔、〕うちの狭い庭にも柿の木がある。ぼくの七歳の頃、祖母が種子から実生〔みしょう〕させ育てた甘柿で、桃栗三年、柿八年と、手入れ大事にしていた祖母は〔、〕ついに柿の実のなるのを見ることもなく戦争中に死んだが、戦後の食糧不足の時代、枝も〔、〕たわわに実をつけるようになった。今は大半は庭に集まる野鳥たちの〔、〕ついばむままにさせているが......。大酒のみで甘いものが苦手の父が、なぜか庭の柿が好物で、よく竿〔さお〕で叩きおとしては、包丁で器用に皮を剥いて、いくつも喰っていた。(「柿の雄花」)

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