ホームメッセージ奥野健男論(第六回)――「教養」の来た道(258) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

奥野健男論(第六回)――「教養」の来た道(258) 天野雅郎

原風景という日本語を、何時、誰が最初に使い始めたのか、よく僕には事情が分からないけれども、この語を一般に普及させたのが奥野健男(おくの・たけお)の『文学における原風景』(1972年、集英社)であったことは、まず間違いがなく、それ以降、この語を冠した本が現在に至るまで、おそらく出版されていない年は見当たらないのではなかろうか。その意味において、この語が日本語として定着しているのは疑いがないであろう......と思いながら、引いた『日本国語大辞典』(2006年、小学館)には意外にも、その記載が見つからず、仕方がないので、今度は『大辞泉』(小学館)や『大辞林』(三省堂)の、いわゆる「デジタル(digital=計数型)国語辞典」で調べてみると――ありました、ありました、原風景。そして、そこには以下のような説明が施されているので、ご参照を。

 

原体験におけるイメージで、風景のかたちをとっているもの。(『大辞泉』)

① 原体験から生ずる様々なイメージのうち、風景の形をとっているもの。② 変化する以前の懐かしい風景。(『大辞林』)

 

ウ~ン、何だか不思議に似ているなあ、と余計な穿鑿(センサク)は止めにして、この二つの電子辞書に従えば、どうやら「原風景」とは「原体験」の一種別であり、一類型であって、これならば『日本国語大辞典』にも載っているから、その語釈を君に紹介しておくと、そもそも「原体験」とは「その人の人格形成や、行動の方向づけに、知らず知らず影響を及ぼしている、幼少期の体験」であった由(よし)。ついでに、この「原体験」の説明も先刻の、二つの電子辞書を例に挙げておくと、これが『大辞泉』では「その人の思想が固まる前の経験で、以後の思想形成に大きな影響を与えたもの」となり、もう一方の『大辞林』では「記憶の底に〔、〕いつまでも残り、その人が何らかの形で〔、〕こだわり続けることになる幼少期の体験」となる。ウ~ン、今度も不思議に似ていますねえ。

ともかく、このようにして跡付けると、結果的に「原体験」とは君や僕を始めとして、あらゆる人間の、それぞれの「人格形成」に関わるものであり、君や僕が「思想形成」を営む前に、すでに君や僕の「幼少期の体験」として、確定済みのものであるらしい。そして、それが君や僕の「記憶の底」に留まり続け、その後、どのような「思想」を君や僕が選び取るのか、また、どのような「行動」の仕方を君や僕がするのかは、この「原体験」が重要な影響(=影+響)を及ぼしている、と言うことにならざるをえないであろう。したがって、そのような「原体験」を奥野健男自身は、そのまま「自己形成空間」と言い換えていた訳であり、この点を今回は「演劇的家庭論」と副題の付いた、彼の『ねえやが消えて』(1991年、河出書房新社)の該当箇所から抜き出しておくと、次のようになる。

 

東京山の手〔やまのて〕の都会育ちのぼくは、自分の〝原風景〟(自己形成空間)として子供の頃をふりかえってみると、〝原っぱ〟と〝隅っこ〟のふたつが浮かびあがってくる。『文学における原風景』という長篇評論は、幼い頃の〝原っぱ〟〝隅っこ〟の思い出をもとに、タイム・トンネルのように狩猟採集の縄文時代に遡ったり、未来の都会幻想をひろげたりして、日本文化と文芸の本質を探った〔、〕たのしい遊びであった。その〝原っぱ〟と〝隅っこ〟の〈空間〉のほかに、大切な〈人間〉の原風景として〝ねえや〟があったのである。

 

と、このようにして奥野健男は『文学における原風景』を引き継ぐ形で、この『ねえやが消えて』の中でも、ほとんど無防備なまでに、言ってみれば、明(あ)け透(す)けに自己の「幼少期の体験」を想い起こし、あまつさえ(←あまりさえ)「ねえやによって、ぼくは十八歳の時、はじめて女を知ったということになる」と、いかにも大正時代の最末年(大正十五年→1926年)に生まれた日本人に相応しく、みずからの童貞喪失(!)の体験を語り出す始末であるが、もちろん僕個人は、どのような形で奥野健男が彼のヴァージン(virgin=処女)を失ったのかに興味がある訳ではなく、むしろ彼が、このようにして「原っぱが都会から、隅っこが住居から消滅したように、ねえやも家庭から消え去り、忘れられてしまった」と嘆いている、その「原風景」の喪失の仕方に、関心がある次第。

なぜなら......と書き出して、ふと僕は気になったので、ここで筆を少し、とどこおらせるけれども、はたして君は「ねえや」(姉や・姐や)という存在が、これまた『日本国語大辞典』の語釈のように「(「や」は接尾語)若い下女・女中などを親しんでいう語。また、娘」であることを、どうにか、こうにか知ってはいても、そこで用例に挙げられている、あの三木露風(みき・ろふう)の『赤とんぼ』の「ねえや」(十五で、ねえやは嫁に行き、お里のたよりも絶えはてた~♪)が、この「ねえや」であることを弁(わきま)えていた側であろうか、それとも、弁えていなかった側であろうか。実を言うと、かく言う僕自身が何歳の頃までであろう、この「ねえや」を自分の、存在してもいない姉(あね)に見立てて、何やら訳の分からない、切ない感傷に浸っていたのが実情なのであった。

いやはや、このようにして振り返ると、当然ながら、僕個人が「原っぱ」や「隅っこ」を想い起こすことは出来ても、困ったことに「ねえや」という「独特の〔、〕甘酸っぱい〔、〕懐かしい感じ」を実感したり、体感したりすることの叶わない側の人間、と言うよりも、世代であることを痛感せざるをえない訳である。――「子供の頃の思い出に身を任すと、自然に浮んでくるのは〔、〕ねえや〔原文:傍点〕の姿である。〔中略〕ねえやは純粋に子供の頃だけの〔、〕なつかしい関係なのだ。〔改行・中略〕ねえやは子供のぼくが最初に識った他者であり、遊び相手であり、教師であり、召使いであり、母親代りであり、恋人であるのだ。異人という言葉を用いてもよい。その〔、〕いずれにせよ、ねえやの思い出は強烈であり、多分ぼくという人間の形成に深く関わっていると思われる」。

そして、ここから奥野健男は次々と、日本の近代文学史上に登場した、例えば志賀直哉や芥川龍之介や、あるいは谷崎潤一郎や里見弴の描く「ねえや」の姿を、あれやこれやと分析し、批評することになるのであるが、それよりも何よりも、この場で僕が君に伝えておきたいのは、これらの「ねえやは〔、〕ほとんど田舎から来ていた」ことであり、要は「地方出身者」であったことである。すなわち、総じて「その頃の山の手に住む〔、〕東京のサラリーマンや知識人のほとんどは、地方出身者か、その二世ぐらいであったから、それぞれ郷里が地方にあった。つまり田舎、在所をもっていたのだ。その田舎からの縁故で〔、〕東京の信頼できる〔、〕お屋敷に口減らしと行儀見習いを兼ねて嫁入り前の何年か、女中奉公に行く」のが、そもそも「ねえや」と呼ばれた、彼女たちの実態である。

したがって、そのような彼女たちを先刻の引用の通り、奥野健男が「他者」や「異人」と称していたのは、はなはだ印象深く、それは単に、そのような「他者」や「異人」の出現によって、彼の幼年期や少年期の純潔(virginity)と貞節(chastity)と、まさしく無垢(innocence)が破られ、犯された......と評するに留まらず、そのような関わりを「原体験」として、そこに「原風景」をも伴いながら、実は逆に、この接触を介して彼は、ある種の「異文化体験」を積み、昨今の流行語で言えば、ある種の「異文化コミュニケーション」(cross-cultural communication)に遭遇していたのである。――「都会育ちのぼくは、ねえやを通して日本の田舎を、その言葉、体臭によって追体験したのだ。東京に居ながら、ぼくは越後と紀州の昔噺〔むかしばなし〕や子守唄によって育ったのである」。

 

ねえやは原っぱに〔、〕よく似合った。また〔中略〕ねえやは隅っこにも〔、〕よく似合った。〔中略〕ねえやは原っぱ、隅っこと同じく〔、〕ぼくの原風景であり、自己形成に深くかかわっているのだ。ねえやは妣(はは)が国、姐(あね)が国から〔、〕はるばる訪れて来た異人であった。〔改行〕少くとも〔、〕ねえやが居たおかげで母親とのアンビバレンツ〔両面価値→好悪併存〕な愛憎とは別に、女のやさしさ、こわさ、大胆さ、不思議さを〔、〕ぼくは知ることができたのである。ぼくだけでなく、その頃の都会の多くの少年たちが......。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2017 Wakayama University