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奥野健男論(第七回)――「教養」の来た道(259) 天野雅郎

小林秀雄(こばやし・ひでお)に「故郷を失った文学」という一文がある。今、手許の『小林秀雄全作品』(2003年、新潮社)で探してみると、この「第六次小林秀雄全集」では第4集の「Xへの手紙」の中に、この一文は収められており、それを先程、僕は読み直した所である。と言ったのは、かつて僕は大学生の頃、この一文を新潮文庫版か角川文庫版か、どちらかの「Xへの手紙」で読んでいた記憶があったからであり、ちょっと気になったので調べてみると、それは角川文庫(『様々なる意匠・Xへの手紙』)の方であり、新潮文庫(『Xへの手紙・私小説論』)の方には残念ながら、この一文が含まれていないことを発見した次第。――いやはや、人間の記憶とは曖昧(アイマイ)なものである。

ちなみに、この一文を最初に読んだ折、僕が同じ文庫内の「様々なる意匠」や「私小説論」や、あるいは中村光夫(なかむら・みつお)と福田恆存(ふくだ・つねあり)との三人の鼎談(「文学と人生」)の、あちらこちらに赤鉛筆で線引きをしているにも拘らず、この「故郷を失った文学」に対しては、まったく線引きの跡が残されていない。と言うことは、この一文が当時、大学生であった僕には、それほど面白くなかったのか......少なくとも、あまり興味を催す内容ではなかったらしく、そのこと自体にも僕は関心を持たざるをえない始末である。なにしろ、それから四十年もの時間を隔てて、目下、この「故郷を失った文学」のページを捲(めく)っている僕には、この一文が相当に魅力的であり、この一文の書かれた年(昭和八年→1933年)と合わせて、はなはだ印象的であったから。

ところで、このようなことを想い起こしながら、実は僕は偶々(たまたま)先刻、これまた大学生の時に買ったと思(おぼ=覚)しき「人生論読本」(全12巻)の中の、第6巻に当たる『小林秀雄』(1960年、角川書店)を本棚から引っ張り出し、そのページを開いたのであるが、その冒頭(「自己を語る」)には何と、この「故郷を失った文学」の抜粋が載せられていたばかりか、その後に編者の佐古純一郎(さこ・じゅんいちろう)の添えた「故郷のない精神」という解説をも発見した次第。――いやはや、人間の記憶とは曖昧なものである......と、このように繰り返しながら、その解説を若い、君の一覧にも供したく、以下に徳島県(名西郡神山町)に生まれ、やがて二松学舎大学の学長にもなった、この文芸評論家で、また「キリスト者」でもあった、佐古純一郎の文章を引いておこう。

 

この評論は小林秀雄氏の批評を理解するためには見落とすことのできない〔、〕たいせつな作品の一つであります。「家郷の喪失〔Heimatlosigkeit〕ということが世界の運命となりつつある」とは〔、〕ハイデッガー(Martin Heidegger)のことばでありますが、若い日の小林氏は自分の中の「故郷のない精神」というものに気がついているのです。それは東京という〔、〕わけのわからない近代都市に生まれた氏の率直な告白でありますが、しかし〔、〕ただそれだけのことではないように思われます。

 

と、その背景を佐古純一郎は、今度は1930年代の「シェストフ的不安」と結び付け、次のように述べているので、ご参照を。なお、シェストフ(Lev Shestov)というロシアの、ひいてはフランスの、亡命哲学者については君自身が、ご参照を。――「明治以来、西洋の近代文明の影響なしに生きて来られなかった日本の近代的知識人が、気がついてみたら、故郷を失って根なし草のようになってしまっている自己を見いだした、そういう不安が一九三〇年代の知識人を深く〔、〕とらえていたのです。シェストフの『悲劇の哲学』が河上徹太郎(かわかみ・てつたろう)阿部六郎(あべ・ろくろう)両氏の訳で出たのが一九三四年ですが、当時の文壇にシェストフ的不安というような〔、〕ことばが行なわれ、シェストフの選集が刊行されたのも、そういう不安の状況を条件としてでありました」。

さて、このようにして国内的でもあれば国外的でもあり、要は、その名の通りに国際的(international=国家間的)な「シェストフ的不安」について、僕が今回、君に話をしているのは、それが前回、奥野健男(おくの・たけの)の『ねえやが消えて』(1991年、河出書房新社)を中心にして取り上げた、あの「原体験」や「原風景」の問題へと、そのまま移行するものであったからに他ならない。なぜなら、この、大正十五年(1926年)に産声(うぶごえ=初声)を上げた文芸評論家が、その幼年期と少年期を過ごしたのは、まぎれもなく1930年代の「不安の状況」の渦中であり、裏を返せば、彼の追懐している「原っぱ」や「隅っこ」や、とりわけ「ねえや」の佇(たたず)む地平とは、この当時の時代背景に即してこそ成り立つ、はなはだ時代色の強い観念でも、あったのではなかろうか。

言い換えれば、彼とは違い、彼よりも四半世紀先を生きた......その経緯において、彼の父親の世代に属している小林秀雄は、その生年が明治三十五年(1902年)であり、奥野健男の父親の健一とは4歳違いであるけれども、その彼(小林秀雄)が、この「故郷を失った文学」で文字どおりに、みずからを「故郷を失った精神」(=「故郷のない精神」)とか「青春を失った青年」と呼び、その特徴を次のように述べているのは、きわめて示唆的である。――「自分の生活を省みて、そこに何かしら具体性というものが大変欠如している事に気づく。しっかりと足を大地につけた人間、社会人の面貌(めんぼう)を見つける事が容易ではない。一と口に言えば〔、〕東京に生れた東京人というものを見附けるよりも、実際〔、〕何処に生れたのでもない都会人という抽象人の顔の方が見附けやすい」。

ただし、この一文が谷崎潤一郎(たにざき・じゅんいちろう)の引用で始まることからも、明らかなように、ここには先行する、例えば明治十九年(1886年)に生まれた谷崎潤一郎のような世代との、確執が隠されていた点も見逃されてはならず、その点において、この昭和八年(1933年)が『春琴抄』や、何よりも『陰翳礼讃』の刊行の年であったことに、やはり僕は、大袈裟に言うと、異常な興奮(......^^;)を催さざるをえない。そして、それが最後には、この一文の末尾で「私達は〔、〕こういう代償を払って、今日やっと西洋文学の伝統的性格を歪曲(わいきょく)する事なく理解しはじめたのだ。西洋文学は私達の手によって〔、〕はじめて正当に忠実に輸入されはじめたのだ」と、いかにも「青春を失った青年」の、若々しい「青年の主張」(!)を導き出した理由でもあったろう。

ともあれ、このようにして日本の近代文学は、小説であれ評論であれ、そこに20年内外の、それを世代(generation=親子関係)と称するには、いささか短い時間のスパーンではあるけれども、おそらく抜き難い、根源的な差異性が包み込まれているのであって、そのことを踏まえた上で、はじめて君や僕は小林秀雄や、その先立ちの谷崎潤一郎や、あるいは、その後立ちの奥野健男のことを理解することも可能になるであろう。要するに、人間は残念ながら、何時か何処かで、それぞれの人間が人生をスタートさせ、そのゴールに向かって、歩き(走り?)続けざるをえないのであるから、そのことを弁(わきま)えないと、君や僕は何から何まで、学ぼうと思えば学ぶことが叶い、知ろうと思えば知ることが出来る、言ってみれば、万能の裏返しの無能へと、辿り着かざるをえないのである。

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