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『熊野集』を読み通す(承前)――「教養」の来た道(261) 天野雅郎

物語(ものがたり)と現実(ゲンジツ)という語を使う時、このようにして平仮名(ひらがな)や、あるいは片仮名(カタカナ)で書き分(わ=別)けてみると、その違いが君や僕にも、よく分(わ=解・判)かるのではないか知らん。なにしろ、そもそも「現実」とは近代(=明治時代)になってから、ようやく日本人が用い始めた語であったからであり、例えば日本で最初の哲学辞典(東京大学三学部印行『哲学字彙』)を見ると、この語は英語の actuality の翻訳語であったことが分かるし、この用法は明治十四年(1881年)の初版でも、明治十七年(1884年)の改訂増補版でも、さらに明治四十五年(1912年)の『英独仏和・哲学字彙』に至っても、基本的に変わっていない。変わったのは、そこに英語の actuality と並んで、ドイツ語の Wirklichkeit が付け加わった点くらいである。

ちなみに、この「現実」という語を『日本国語大辞典』(2006年、小学館)で調べ直すと、そこには「英 actuality,reality の訳語」と書かれているけれども、上記の『哲学字彙』では一貫して、後者(reality)には「実体」と「真如」(シンニョ)の語が宛がわれており、これに「真実」や「体性」や「本体」や「実有」の語が、次から次へと付け加わるのは『英独仏和・哲学字彙』以降のことになる。この点は、前者(actuality)にも該当していて、はじめて「現存」という語が「現実」に付け加わるのも『英独仏和・哲学字彙』が最初である。要するに、このようにして日本人は近代以降、涙ぐましいまでの努力をして、一方の actuality には「現実」を、もう一方の reality には「実体」と「真如」を、それぞれ区別して、頑(かたく=固)なに宛がい続けてきたのが本来の姿である。

裏を返せば、そのような翻訳語が「日本語」となって定着し、普及するに及んで、どうにかこうにか、日本人は「現実」の何たるかを、また「実体」の何たるかを、理解することも叶うようになった訳であり、その状態は今でも、ひょっとすると継続中なのではないか知らん、と僕は思うけれども、さて君は、いかがであろう。とは言っても、このような試行錯誤には試行錯誤(trial and error)に付き物の、くわだて(トライアル)と、しくじり(エラー)が、いつも繰り返されざるをえないのであって、そのような繰り返しの一つとして、君や僕は19世紀が産み出した「現実」や「実体」や「真如」を、そして、そこに今度は20世紀が上乗せをした、さらに「現存」や「真実」や「体性」や「本体」や「実有」を、あれやこれや、いじくり回さなければならないのであるから、辛い話である。

ともあれ、このようにして「現実」とは、もともと英語の actuality の翻訳語であり、そうである以上は、そこに信じ難い話では(......^^;)あるけれども、実はアリストテレスの「エネルゲイア」(energeia)から始まって、トマス・アクィナスの「アクトゥス・プルス」(actus purus)を経て、そこから更に、今度はライプニッツやカントや、ヘーゲル(現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である!)やキルケゴールへと流れ込む、西洋哲学の途方(トホウ)もない、途轍(トテツ)もない「現実理解」や「現実解釈」の歴史が、その背景には延々として、存在しているのであり、そのような歴史への参入(entry)に、君が人生を賭(と)し、生活を賭(か)けて挑むのであれば、せいぜい僕に出来るのは、君に「エントリー・シート」の書き方を教えることくらいであろう。

閑話休題。これに対して「物語」という語は、読んで字のごとく、最初から日本語である。――理由は簡単で、この語を仮に中国語と見なし、音読しても、それは「モツゴ」(呉音)や「ブツギョ」(漢音)となってしまって、まったく意味を成さないのは歴然としているからである。なお、この語が坪内逍遥(つぼうち・しょうよう)の『小説神髄』(明治十八年→1885年)以降、英語の novel の翻訳語であった「小説」の敵(かたき=仇)役に回されてしまったのも、それは「物語」が「小説」と同様、英語の romance の翻訳語であったからであり、その意味において、この悪者役は濡衣(ぬれぎぬ)以外の何ものでもなく、そこで批判されていたのも、主として、それは江戸時代の「仮名草子」(かなぞうし)や「浮世草子」(うきよぞうし)や、とりわけ「読本」(よみほん)の類である。

もっとも、その中には君や僕にも有名な、あの上田秋成(うえだ・あきなり)の『雨月物語』や『春雨物語』のように、直接、中上健次(なかがみ・けんじ)の『熊野集』にも結び付く、一連の「怪異物語」も含まれており、このような物語群の中に脈々と、古代以来の「作物語」(つくりものがたり→『竹取物語』『宇津保物語』『落窪物語』etc.)や「歌物語」(うたものがたり→『伊勢物語』『大和物語』『平中物語』etc.)の系譜は引き継がれている。そして、そのような系譜の辿り着く先に、やがて姿を見せるのが『源氏物語』であったり『狭衣物語』であったり、また『とりかへばや物語』であったり『堤中納言物語』であったり、ひいては『栄華物語』のような「歴史物語」や『今昔物語』のような「説話物語」や『平家物語』のような「軍記物語」であったことになるのである。

このような「物語」の系譜を、おそらく君も高校生の時分、一度は聞かされた憶えが......あるのであろうが、残念ながら学校の授業では、ほとんど(まったく?)その肝心要の部分を扱えないのが、実は「物語」なのであって、この点は君や僕が、このようにして歴史上、名立たる「物語」を列挙しただけでも、その頽廃的な雰囲気や官能的な性描写や、要は人間の、生々(なまなま)しい生死(いきしに)を、そこに累々(ルイルイ)として語って止まないのが「物語」であることを分かるはず。したがって、仮に君や僕が中上健次の『熊野集』という「物語」に目を通し、そこに「物語」の息吹(いぶき)を感じ取ることが可能であるとすれば、それを成り立たせるのは、決して学校の、授業中の教室ではなく、むしろ授業外の、どこか別の教室であり、違った学校であるのかも知れないね。

と言う訳で、僕は今回、中上健次の『熊野集』について、君に前回の続きも兼ねて、何か補足めいた事柄を伝えようか知らん、と考えていたのであるが、どうやら紙幅も尽きたようなので、この『熊野集』の中で僕が、もっとも気に入った「物語」を抜き出して、君の参考に供することにしたい。でも、それを僕が前回、引用しておいた「あとがき」(著者から読者へ――問という大岩)であると書いたら、いくら何でも顰蹙(ヒンシュク)であろうから、それは抜きにして、この『熊野集』において一番、僕が名文であると思うのは、次のような「蝶鳥」(ちょうとり)の一節である。そして、それは中上健次が僕にとっては、きわめて古風な出で立ちで、このようにして物語(ものがたり)と現実(ゲンジツ)との間を揺蕩(たゆた)う、花鳥風月の物語作家であったことにもなるのである。

 

路地〔ろじ〕の空家〔あきや〕で酒を一人飲みつづけながら〔中略〕いつ眠ったのか分からぬまま眠り込み、朝、戸を開けて外に出た私の前に、蝶々が翔ぶ。宿酔いのまま眼ざめる朝は〔、〕よくあったが、ふと蝶々が〔、〕いつまでも謎として残っている兄の霊魂のような気がした。蝶々は風に浮いて羽根を閉じたまま〔中略〕五月の花に舞い降り、ゆっくりと羽根をおろし、また羽根をすぼめて吹いてくる風にふるわせ、花がもろく萼(がく)から落ちると驚いてとびあがる。蝶が〔、〕いまにも崩れてきそうな空に舞いあがり、女の家の隣の蜜柑箱の花に移る。〔改行・中略〕家の中から出てきた女が〔、〕どしたん? と訊き、私が溜息をつくように、何でもない物じゃが気をつけてみると綺麗じゃねと蝶々を指さすと、女は私の〔、〕けだるい気持がうつったように、蝶々にしたら天国みたいじゃわいねえ、と言う。

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