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恐怖の哲学(第四回)――「教養」の来た道(267) 天野雅郎

実は今から、ちょうど九ヶ月前(平成29年1月17日)のことになるけれども、たまたま僕は「恐怖の哲学」という表題を思い付き、そもそも人間にとって「恐怖」とは何なのか知らん、という話を君に聴いて貰(もら)おうかな、と筆を執り始めた所までは――よかったのであるが、その後、結果的に大学が一年で最も忙しい時期を迎えることになり、やれ入試だ、やれ定期試験だ、やれ論文審査だと、それこそ息を吐(つ)く間もない有り様で、文字どおりの天手古舞(てんてこまい)の状態になってしまい、なおかつ、その上に僕個人の周囲にも、いろいろ僕を「恐怖」に落とし入れる人物が出没したり、信じ難い騒動を惹き起こしたりしたものであるから、困ったことに、この「恐怖の哲学」という話自体も第三回で宙吊(ちゅうづり)のまま、宙ぶらりんの状態に陥ってしまっている。

と言う訳で、このまま放っておくと、この「恐怖の哲学」という話も中断をしたまま、もう日の目を見ることが、なくなる公算が強いので、ふと今日は思い立って、実に九ヶ月ぶりの筆を、僕は執り直している所である。おまけに、それが九ヶ月ぶりの第四回目という計算になるのであれば、これは日本人の大好きな、いわゆる忌数(いみかず)の「四」(=死)と「九」(=苦)にも通じている訳であり、ますます「結構、毛だらけ、猫(ねこ)灰だらけ」(......って、知っていました?)の事態でもあろう。とは言っても、もともと「四」も「死」も、あるいは「九」も「苦」も、これらの漢字を中国語音で読んだもの(すなわち、音読)であり、日本語音で読んだもの(すなわち、訓読)ではないから、このような忌数に縛られるのは、ほとんど日本人には無関係な話なのであるけれども。

と言っておいて、いささか気になったので、手許の『数(すう)の話題辞典』(上野富美夫編、1995年、東京堂出版)を引いてみると、その「4」の項には冒頭、何と「数と人間社会の関わりの中で、東洋、西洋ともに4は完成を表す数とされている。1年は春夏秋冬の四季に、また方角は東西南北に定められている。特に漢民族は〔、〕この傾向があり、古来の言い方によれば四海波静か、四方の海など、全部の方角を表すときに四の文字を使った。日本でも古くは頼光〔ライコウ→源頼光→みなもと・の・よりみつ〕の四天王〔=渡辺綱・坂田金時→金太郎・卜部季武・碓井貞光〕などから、平安朝ごろまでは好んで使われた」と記されていて、用例には御本家の「四天王」(=持国天・広目天・増長天・多聞天)や「四君子」(=梅・菊・蘭・竹)や「四姓」(=源平藤橘)も挙げられている。

言い換えれば、そこから日本人が忌数の習慣を作り、例えば「四」を「死」に、あるいは「九」を「苦」に結び付けたのは、意外や意外、それほど古い習慣ではなく、むしろ新しい習慣であり、上記のごとき「東洋」的な「数と人間社会の関わり」が忘れられ、その一方では「西洋」的な伝統も呑み込めないまま、いたって中途半端な、根無し草のような振る舞いを、し始めた時代の産物であったことが分かる。実際、この『数の話題辞典』に従えば――「西洋では上に加えて、4は忍耐、強い意志、調和、平衡を表す数ともされたようであるが、日本では、4が「死」に音が通じていたので、近代から現代にかけて縁起の悪い数にされ、病院の部屋番号、自動車、電話、飛行機の番号にも〔、〕あまり使われず、普段の生活用品の数も4個揃えにしない傾向がある。これは日本だけの傾向である」。

確かに、中国の「四神」(=青龍・白虎・朱雀・玄武)にしても「四書」(=大学・中庸・論語・孟子)にしても、また、これらが日本の「四方拝」(シホウハイ)や「四民」(=士・農・工・商)に姿を変えても、そこでは「四」は「死」に通じるどころか、逆に「生」にこそ、通じていたのであり、それは「四国」を「死国」と書き換えたり、あるいは「九州」を「苦州」に置き直したりすることが、ほとんど無意味な、ある種の語呂合わせに過ぎないのと、軌を一にしている。それどころか、逆に「九死に一生を得(う)る」とか「九字(くじ)を切る」(=臨兵闘者皆陣列在前)とか、このような形で「九」を使うのが、本来であって、君も気が向いたら、今度は『数(かず)のつく日本語辞典』(森睦彦編、1999年、東京堂出版)のページでも捲(めく)ってみては、いかがであろう。

さて、このようにして振り返ると、今回、僕が君に九ヶ月ぶりに、この「恐怖の哲学」の第四回目の筆を執るに及んだのも、あまり意味がないような(......^^;)そんな気がして来ないでも、ないのであるが、実は個人的な話で、恐縮であるけれども、僕は先日来、授業(「恐怖映画」を哲学する)で四世・鶴屋南北(つるや・なんぼく)の書いた歌舞伎狂言(『東海道四谷怪談』)を題材にして、あれこれ講義を始めており、そこに貼り付いている「四」という数字に、まず着目する必要があったのである。なぜなら、このようにして「南北の最高傑作」であったのみならず、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)が「怪談物の代表作」として位置づけている、この『東海道四谷怪談』の舞台が「四谷」であることを、やはり僕は相応の関心を持って、受け止めざるをえなかった次第。

もちろん、ここに登場する「四谷」が「東京都新宿区南東部の地名、およびJR四ツ谷駅付近の通称」であって、かつては「甲州街道に沿い、江戸時代は江戸城西方の要衝であった」こと、ならびに「現在は新宿に連なるビジネス街・商店街となっている」こと――これらの事実については、ふたたび『日本国語大辞典』の説明の通りであるし、目下、この「四谷」の周囲には新宿御苑や明治神宮外苑や、さらには紀州(!)徳川家の上屋敷跡に建てられた、東宮御所や迎賓館赤坂離宮も存在しているから、おそらく君も一度は、この『東海道四谷怪談』の舞台を目にしたり、それどころか、この近辺を歩き回ったりしたことも、あったのではなかろうか。実際、この『東海道四谷怪談』の主人公、お岩を祀(まつ=祭)る「お岩稲荷」(=四谷於岩稲荷田宮神社)も、この場所に建立されている。

と言い出すと、いかにも時代錯誤(アナクロニズム)の感が、強いけれども、そもそも『東海道四谷怪談』が最初に上演されるのは、今を遡ること192年前の、文政八年(1825年)の時点である。そして、この年には徳川幕府が、例の「外国船打払令」を出しているし、その一方で、いわゆる「明治維新」の立役者となった、岩倉具視(いわくら・ともみ)が生まれ、この前年には同様に、大村益次郎(おおむら・ますじろう)も、その前年には勝海舟(かつ・かいしゅう)も、それぞれ生まれている。と言うことは、すでに時代は大きく、江戸時代(=近世)から明治時代(=近代)へと、その相貌を改めつつあったのであり、そのような変貌(メタモルフォーゼ)の一つとして、いや、その典型として、さしあたり君や僕は、この「南北の最高傑作」を鑑賞し直す必要があるのではなかろうか。

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