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恐怖の哲学(第五回)――「教養」の来た道(268) 天野雅郎

今回は少々、君に「江戸時代」(Edo period)の話を聴いて貰(もら)おうか知らん、と僕は考えているけれども、よく考えてみたら、このようにして「江戸時代」という呼び名を使って、君や僕が今から150年前の、さらに遡れば414年前の「時代」のことを振り返るようになったのは、それほど古い出来事ではなく、むしろ新しい出来事であったに違いない。と言ったのは、このようにして「○○時代」(→奈良時代、平安時代、鎌倉時代etc.)という呼び名や、その呼び名を成り立たせている根拠自体が、当の「○○時代」には存在しておらず、その「○○時代」に一応の終結が見出された時点で、はじめて「○○時代」という呼び名は成り立ちうるからである。したがって、これを「江戸時代」に限って見ても、それを成り立たせているのは「江戸時代」以後の時代でしかないのである。

ところが――と、ここから話は幾分、面倒になるけれども、この「江戸時代」という語を産み出した「江戸時代」以後の時代、すなわち、明治(1868年~1912年)や大正(1912年~1926年)や昭和(1926年~1989年)や、目下の「平成時代」(1989年~2020年?)は、ことごとく今上天皇(キンジョウ・テンノウ)と称される、それぞれの時代に在位中であった天皇名で呼ばれており、これを「江戸時代」と同等の、同格の「時代」として位置づけることは、まず困難である。もし仮に、これを「江戸時代」にも遡及し、普及させるのであれば、今度は「江戸時代」が孝明時代(1846年~1867年)から仁孝時代(1817年~1846年)へと、さらには光格時代(1779年~1817年)へと、計15人の今上天皇の名で遡らざるをえないことになり、逆に「江戸時代」が解体されることにもなるであろう。

その限りにおいて、むしろ「江戸時代」以後の時代は強いて言えば、現在進行中の「東京時代」(Tokyo period)である、という見方をすることも可能であろう。また、これは正直な所、不愉快な話であり、なんだか面白くないなあ(......^^;)と、僕個人は溜息(ためいき)を吐(つ)かざるをない話であるが、実は見方を変えれば、いまだ「江戸時代」は終っておらず、そこには「東京時代」という衣(隠れ蓑?)を被り、重ね着をした「江戸時代」が続いている(!)という見方をすることも可能なのではなかろうか、と僕は思うけれども、さて君は、いかがであろう。なにしろ、君や僕が現在、東京と称している場所は今から、ちょうど150年前、江戸から東京へと名を改めたに過ぎず、それを「トウキョウ」と読もうが「トウケイ」と読もうが、要は江戸の、改名した場所であったから。

と、このような話を続けていると、だんだん僕の不機嫌も高じてきて、それが「東京」であっても「西京」であっても、はたまた「南京」であっても「北京」であっても、僕の生来の「京」(音読→キョウ=呉音、漢音→ケイ、唐音→キン)嫌いや、これを訓読した際の「みやこ」(都→宮処→御屋処)嫌いに、いよいよ火が付きそうなので、控えておくけれども、とにかく君や僕が一般に「日本史」(Japanese history)という形で習う、この国の歴史は「京」や「みやこ」の歴史であって、その「京」や「みやこ」が当時、何処に置かれていたのかによって、やれ奈良時代だ、やれ平安時代だ、やれ鎌倉時代だと、その「京」や「みやこ」を牛耳(ぎゅうじ)っていたのが公家であったり、武家であったりの違いはあっても、それは所詮、権力と支配と、その争奪の歴史でしかないのである。

と言う訳で、そのような「日本史」から可能な限り、離れた歴史(history→his story+her story=their story)を、僕は君に聴いて欲しいのであるが、例えば前回、僕が話題に持ち出した『東海道四谷怪談』は、そもそも「江戸時代」の文政八年(1825年)が初演であったから、これは今を遡ること192年前の「歌舞伎狂言」になるし、これを一般に「江戸時代」のスタートと目されている年(慶長八年→1603年)から数えるならば、今度は222年後の出来事になる。と言うことは、この年に徳川家康(とくがわ・いえやす)が「征夷大将軍」となり、江戸に「幕府」(=将軍の居館)を開き、まさしく「江戸時代」が始まった段階から、君や僕が今、生きている「平成時代」に至るまでの、おおよそ400年余りの時の流れの中の、ほぼ中間地点に、この『東海道四谷怪談』は位置している。

見方を変えると、君や僕が今、この『東海道四谷怪談』に対して感じる、ある種の遠近感は、ごく単純に振り返れば、この「歌舞伎狂言」と「江戸時代」の始まりとの間に介在する、遠さと近さに等しかった訳であり、少なくとも、そこには類似の遠さや近さが感じ取られていたのではあるまいか。しかも、ここに鶴屋南北(つるや・なんぼく)が『東海道四谷怪談』と同時上演をした、あの『仮名手本忠臣蔵』(寛延元年→1748年)や、その題材となった「赤穂義士」事件(元禄十五年→1702年)を差し挟むと、それは合わせ鏡のような姿で、ほぼ『東海道四谷怪談』の100年後(昭和元年→1926年)に「昭和時代」が始まり、やがて半世紀が経とうとする時分、今度は三島由紀夫(みしま・ゆきお)の「割腹自殺」事件(昭和四十五年→1970年)あたりが起きるのと、二重写しの状態になる。

僕個人は、いわゆる「歴史は繰り返す」(History repeats itself)とは、決して思わないし、そこに「一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」(マルクス)という上乗せをする気も、さらさら起きないけれども、それでも人間が歴史の渦中で、はなはだ類似の行為を反復していることは、やはり認めざるをえない。その限りにおいて、いつも歴史は「温故知新」(『論語』)の道具(=道の具え)であろうし、君や僕が歴史を学ぶ意味も、突き詰めれば、この点にあったに違いない。――と書き出すと、何とも陳腐で、我ながら呆れ返ってしまうが、それにも拘らず、この「陳腐」という語の重要性や、その「かけがえのなさ」(irreplaceableness=代替不可能性)に気が付くのも、ひょっとすると君や僕が、このようにして歴史を学んで、辿り着く、その到達点であったのかも知れないね。

さて、そろそろ予定の原稿用紙の枚数も尽きつつあるので、この続きは次回に、あらためて喋り直すことにして、以下に簡単な「江戸時代」の見取り図を、この『東海道四谷怪談』と繋がる形で提示して、君に提供しておくことにしよう。今回は、あの「赤穂義士」事件の敵(かたき)役でもあれば、被害者(victim=人身御供)でもあった、上野介(こうずけのすけ)こと吉良義央(きら・よしなか)の生まれた年(寛永十八年→1641年)からスタートをして、やがて「江戸時代」の「町人文化」の花が開き、まさしく、その代表作の一つとして鶴屋南北の『東海道四谷怪談』も書かれ、上演されるに至った「文化・文政時代」までを辿り出すと、ちょうど200年を数えて、今度は徳川家斉(とくがわ・いえなり)の没する年(天保十二年→1841年)が射程に収まることになるから、ご参照を。

 

1641年 吉良義央(上野介)生

1646年 徳川綱吉生

1659年 大石良雄(内蔵助)生

1665年 浅野長矩(内匠頭)生

1680年 徳川綱吉⑤代将軍

1684年 徳川吉宗生

1688年 ※「元禄」時代(~1704年)

1701年 浅野長矩没

1702年 ◎「赤穂義士」事件(→吉良義央没)

1709年 徳川綱吉没

1716年 徳川吉宗⑧代将軍→「享保(1716年~36年)の改革」

1748年 ◎『仮名手本忠臣蔵』初演

1751年 徳川吉宗没

1755年 鶴屋南北生

1773年 徳川家斉生

1787年 徳川家斉⑪代将軍→「寛政(1789年~1801年)の改革」

1804年 ※「文化・文政」時代(~30年)

1825年 ◎『東海道四谷怪談』初演

1829年 鶴屋南北没

1841年 徳川家斉没

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