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詩人の幸福(第二回)――「教養」の来た道(269) 天野雅郎

先日、偶々(たまたま)「古典講読」の授業でテキストに使っている、岩波文庫の『日本近代随筆選』(2016年)のページを開いていたら、その第3巻(「思い出の扉」)に詩人の山之口貘(やまのくち・ばく)の「暴風への郷愁」という一文が収められており、それを読み出し、はじめて僕は当時の沖縄県民が(と、このような言い方は実の所、したくはないのであるけれども)沖縄では「雪」を見ることが叶わず、それを「活動写真」(=映画)の中の『忠臣蔵』の「雪」としてのみ、わずかに脳裡に思い描くことが出来るのみであった......という事実を知り、興味を持ったので、そのことを君にも伝えたく、急に今回、この「詩人の幸福」の筆を執り始めている。ちなみに、この「暴風への郷愁」という一文は、今を遡ること63年前の、昭和二十九年(1954年)に発表されたものである。

なお、このような一文を「古典講読」と称する授業で読んでいることに対して、ひょっとすると君は大いなる疑問や、場合によっては憤慨さえ、催しかねない側であるのかも知れないね。でも、おそらく昨今の大学生に「古典」と言って、それを例えば『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の挙げている語釈、すなわち「①(「こでん」とも)古くからの法式。いにしえの典礼。②古い典籍。昔の経典。③すぐれた著述や作品で、過去の長い年月にわたって多くの人々の模範となり、また愛好されてきたもの」という意味だけで受け取り、それを四角四面に用いるのは、あまりにも無理があり、無謀であって、僕自身は単純に、その際の「古」さや「いにしえ」や、あるいは「昔」や「過去の長い年月」を昨今の大学生が、そのように自分で感じる時間である、と解釈しているので、ご容赦を。

事実、この山之口貘という詩人の名前を聞いても、彼が明治三十六年(1903年)に沖縄で生まれ、上京して詩人となり、生涯で197編の詩を書き、それらを纏(まと)めて、増補版や改訂版や遺稿も含めて、計4冊の詩集を出し、やがて胃癌を患い、亡くなったのが昭和三十八年(1963年)の時点であることも、まったく昨今の大学生の記憶の網には、引っ掛かりえないはずである。と言う訳で、ついでに『日本国語大辞典』から「山之口貘」の項を引いておくと、次の通りである。――「詩人。沖縄県出身。本名山口重三郎。県立沖縄一中〔、〕中退後上京、「歴程」同人〔=草野心平・金子光晴・高村光太郎・中原中也・宮澤賢治etc.〕となる。十代後半からの放浪生活、貧しい結婚生活、故郷の沖縄などを材料に独特の詩世界を形成した。詩集「山之口貘詩集」、遺稿詩集「鮪に鰯」など」。

ところで、このような形で話を始めると、僕が一見、昨今の大学生とは違い、この詩人のことを以前から、よく知っていたかのように誤解をされると困るので、あえて付け加えておくけれども、僕自身も短い、わずかな時間を、この詩人の生涯と結び付けることが許されているに過ぎず、その意味において、ほとんど僕も昨今の大学生と等しく、これまで彼の詩を読んだことのない側に属している訳である。が、そこに唯一、違いがあるとすれば、それは彼の詩が1960年代の末年以降、要は......彼の亡くなった後、歌手の高田渡(たかだ・わたる)によって歌われ、それが折しも当時の「フォーク・ソング」ブームの波に乗って、いわゆる「深夜放送」のラジオ番組あたりから流れていたのを、いまだ中学生や高校生であった僕は、あれやこれや記憶に留めている、という程度の話なのであった。

ただし、それは見方を変えると、この詩人が先程、名前を挙げたばかりの、例えば草野心平(くさの・しんぺい)と同年の生まれであったり、金子光晴(かねこ・みつはる)からは8歳下、宮澤賢治(みやざわ・けんじ)からは7歳下であり、逆に中原中也(なかはら・ちゅうや)からは4歳上であったりしたことを、やはり僕は運命的に、必然的に受け止めざるをえず、このような錚々(ソウソウ)たる顔ぶれが一堂に会して、と言い出すと語弊はあるけれども、彼らが文字どおりに金属のように触れ合い、競い合うかのような音を立てている姿は、いかにも壮観であり、この『歴程』(れきてい)という同人誌の刊行されていた、今から70年も80年も昔の「詩人の幸福」を、あくまで「詩人の幸福」という形ではあっても、そこに僕は、それこそ「暴風への郷愁」を感じざるをえない次第。

さて、けっこう長い前置きになったけれども、このようにして「暴風への郷愁」は昭和二十九年、山之口貘が51歳の時に書かれ、それから8年後、彼は「高村光太郎賞」の受賞と言う、この詩人の唯一の世間的(世俗的?)な栄誉を遺して、ほぼ60年に近い生涯を閉じることになるのであるが、この「暴風への郷愁」の書き出しは冒頭にも述べた通り、その表題に見合った「暴風」の話からスタートを切るのではなく、それとは一見、無関係に見える「雪」の話から始まっている。そして、そこから続いて彼の生まれ、育った「沖縄の暴風」と、それに比べれば「ものごとをバカに、大げさにいうところ」である「東京」の――決して「暴風」とは呼べない「暴風」の話へと進み、そのような「沖縄の暴風」も「いまとなっては〔中略〕一種の郷愁」となってしまった時点で、この一文は終わる。

この一文を読んだ時、何やら無性に切ない話だな、と僕は感じたのであるが、このような感慨に対して、君は相応の共感を抱いてくれる側であろうか、それとも全く、このような「暴風」や「雪」の話には興味を示さない側であろうか。まあ、それは君の感受性の問題であろうけれども、きっと人には人それぞれに、このような「暴風」や「雪」が存在していて、それは当初、一種の「異文化体験」や、その裏返しの「自文化体験」として、君や僕の胸を深く抉(えぐ)り、そこに生々しい、傷痕を留めておきながら、それにも拘らず、ふと気が付くと、そのような体験自体が次第に色褪せ、それを想い起こそうにも、なかなか上手く、その色や形や音や匂いを振り返ることが難しくなってしまう......そのような、やるせない「郷愁」(ノスタルジア)と共に、人は生きていくのではなかろうか。

と、このような話を今回、僕が君に聴いて貰(もら)っているのは、どうやら昨今の大学生の多くには、かつて沖縄が日本で最悪の、いわゆる「太平洋戦争」(→第二次世界大戦)の戦場(battlefield)になったことも、そして、その結果、戦後も沖縄がアメリカの統治下に置かれ、琉球政府となり、これが再度、日本に返還されて「沖縄県」となるのは今から45年前の、昭和四十七年(1972年)に過ぎないことも、すっかり頭の中から抜け落ちてしまっているからなのであった。したがって、この山之口貘の「暴風への郷愁」が書かれた時、いまだ沖縄が「沖縄県」ではなかったことも、昨今の大学生の多くは、まず理解してくれそうにない。と言う訳で、僕は何だか、とても後ろめたい思いを引き摺りながら、この「暴風への郷愁」の冒頭部分を引用し、君の一読を請うことにしたのである。

 

郷里の沖縄から、上京したのは大正十一年の秋のことであったが〔、〕その年の冬に、はじめて、ぼくは雪を見た。本郷台町の下宿屋の二階で、部屋の障子を開けっ放して、中庭に降りつもる雪の白さを、飽かずにながめたことを記憶している。南方生れのぼくは、はじめて見る雪のながめに、つい寒さも忘れて『忠臣蔵』を〔、〕おもい出していたのであった。その後、同郷出身の友人たちに、きいてみると、雪に対するぼくらの第一印象は、誰もが『忠臣蔵』なのであった。ぼくらは、活動写真の忠臣蔵によってしか、雪を知っていなかったからなのである。いまではしかし、上京当時のことを〔、〕おもい出さない限り、どんなに雪が降ったところで、忠臣蔵を〔、〕おもい出すことはなくなってしまったのである。

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