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『東海道四谷怪談』を読む(第一回)――「教養」の来た道(273) 天野雅郎

前回まで繰り返し、僕は君に四世・鶴屋南北(つるや・なんぼく)の、あの『東海道四谷怪談』(文政八年→1825年)の話を、あれこれ聴いて貰(もら)ってきた訳であるけれども、ここで改めて『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の語釈を借りると、この「江戸劇壇の代表的作者」が70歳になってから、その「最高傑作」として物したのが、この『東海道四谷怪談』であって、そのことによって歴史上、鶴屋南北は「生世話(きぜわ)を完成」し、また「怪談物を創始」することにもなったのであるが、その『東海道四谷怪談』を今回から、もう一度、じっくり読み直そうか知らん、と僕は考えている。まあ、かなり似たり寄ったりの話にはなるであろうが、ご容赦を。――と言った次第で、さっそく本題に入り、君を例の、序幕(一幕目)に登場する「浅草観世音境内の場」へと、ご案内。

と言っておきながら、まず君に幾つか、僕は歌舞伎(かぶき)に関する基礎的な知識を伝えておく必要があるのではないか知らん、と思い直している。なにしろ、それは特段、歌舞伎に限った話ではないけれども、いわゆる伝統芸能と称されるものが君や僕の周囲では、いっこうに伝統芸能(traditional〔performance/performing〕art)ではなく、むしろ反対に、その引き渡し(traditon)が皮肉にも、ほとんど機能していないのが伝統芸能であったから。論より証拠、君は多分、よほど特殊な生まれや育ちや、要は止事無(やんごとない)家の出でない限り、これまで一度として、歌舞伎も能も狂言も、いわゆる文楽(すなわち、人形浄瑠璃)も、その目にしたことがなかったであろうし、そのことを君自身が、ことさら伝統に反する、伝統を忘れた行為であるとは思っていないはずである。

実は僕も、それほど君と違った、境遇や立場ではないのであって、いったい何歳の時分までであろうか、僕も君と同様に、まったく伝統芸能に対して興味を持つことなど、なかったのが正直な話である。裏を返せば、若い頃から伝統芸能に関心を示す方が、どうかしている(......^^;)のである。でも、それは素直に想い起こせば、このような伝統芸能と呼ばれるアートやパフォーマンスが、ほとんど君や僕の生活の中には介入せず、浸透していなかったからに他ならず、もっと子供の時分から、このような伝統芸能と付き合い、関わり合う機会が存在していれば、ずいぶん君や僕の伝統芸能を見る目も、異なっていたのではなかろうか、と振り返らざるをえない。事実、今でも上手に伝統芸能と付き合うことの出来る人たちは、単純に伝統芸能を、伝統芸能とは感じていない人たちなのであった。

その意味において、さしあたり僕が君に伝えたいのは、このようにして伝統芸能を伝統芸能とは見なさず、そのようには思い込まない、頭の使い方であり、端的に言えば、それは例えば歌舞伎を、その本来のアートやパフォーマンスの状態に戻して、捉え直す、という頭の使い方である。その意味において、ふたたび『日本国語大辞典』で「歌舞伎」の項を引くと、そこには最初に「歌舞伎」と「歌舞妓」という二つの漢字表記が並べられており、もともと「歌舞伎」は「歌舞妓」や、あるいは「歌舞妃」と書き、それは文字どおりに「歌舞する女性」を指し示し、これに「歌舞伎」という表記が宛がわれ、一般化をしたのは近代以降のことであったのが、見逃されてはならないであろう。ごく簡単に言えば、このようにして「歌舞伎」は女性の側から男性の側へと、その主軸を移した訳である。

この間の事情や経緯を、これまた『日本国語大辞典』は次のように簡潔に、要領よく纏(まと)めており、きっと君も、これで一端(いっぱし)の「歌舞伎通」(?)になれるであろうから、ご一読を。――「(動詞「かぶく(傾)」の連用形の名詞化)近世初期に発生、発達した日本固有の演劇。慶長八年(一六〇三)頃、出雲大社の巫女(みこ)阿国(おくに)が京都で念仏〔ねんぶつ〕踊りを興行したのが初めといわれ、人気を集めたが、風俗を乱すとして禁止になった。代わって美少年中心の若衆〔わかしゅ→わかしゅう〕歌舞伎や野郎〔やろう〕歌舞伎が出現し、次第に技芸本位のものとなり、元禄(一六八八-一七〇四)以後〔、〕多数の名優を輩出した。舞踊、科白〔せりふ=台詞〕、音楽を混交させた伝統演劇として完成し、現在に及ぶ。歌舞伎劇。歌舞伎芝居。歌舞伎物真似」。

さて、いかがであろう。このようにして振り返ると、歌舞伎とは元来、女性であれ男性であれ、いずれにしても当時の、若者(ヤング)によって創始された、まさしく「ストリート・パフォーマンス・アート」の一種であったのであり、それが結果的に「人気」(ポピュラリティー)を獲得しえたのも、それが大衆的で通俗的な、その名の通りの「ポピュラー・ソング」であったり「ポピュラー・ミュージック」であったりしたからであり、とりわけ、それが「ポピュラー・ダンス」であったからに他ならない。しかも、それは当時の権力者(=江戸幕府)の目から見た場合、結果的に「禁止」の対象とならざるをえないものでも、ありえた訳であって、そのことが逆に、いわゆる対抗文化(カウンター・カルチャー)としての若者文化を特徴づけていることも、何時の時代にも変わる所はない。

と言うことは、そのような歌舞伎の前衛的(avant-garde)な性格が、いったい何時、若者文化から非若者文化へと、ひいては反若者文化へと変質し、その辿り着く先に、今度は「伝統芸能」としての歌舞伎が姿を見せることになったのか、やはり君や僕は、気にならざるをえない。が、そのような難問を今、この場で説き明かすことは、とうてい僕には叶わない話であるから、せめて君には鶴屋南北が、その古稀(コキ=70歳)になって書き上げ、書き遺した、この『東海道四谷怪談』という歌舞伎狂言が、その原義どおりの「道理にはずれた言葉や動作。また、常軌を逸した言葉や動作。たわごと」(『日本国語大辞典』)に溢れ、貫かれたものであることを、君に紹介し、そのことを通じて、まさしく彼が正真正銘の、歌舞伎狂言作者であったことを、君と共に確認できるのであれば幸いである。

なお、このようにして「狂言」という語は、もともと古く、中国の『荘子』にまで遡る語であるけれども、いたって興味深いことに、この語は日本で独自の発展を遂げ、君も日本史の教科書あたりで知っている、あの「能」と並ぶ、室町時代を代表する演劇となった次第。そして、このような「能」や「狂言」の影響を受けつつ、その交流の中から登場するのが「歌舞伎」であった。したがって、その演目に関しても同様に、この「狂言」という語が使われることになり、そこから「歌舞伎狂言」という言い回しも生まれるのであるが、なおかつ興味深いのは、このようにして「歌舞伎」が「能」ではなく、結果的に「狂言」と結び付く点であり、それは君や僕が「歌舞伎」という演劇の性格を考える時、決して忘れてはならないものであろう、と僕は思うけれども、さて君は、いかがであろう。

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