ホームメッセージ『東海道四谷怪談』を読む(第二回)――「教養」の来た道(274) 天野雅郎

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『東海道四谷怪談』を読む(第二回)――「教養」の来た道(274) 天野雅郎

もう何年も前に、と思って奥付を捲(めく)ると、そこには1992年8月1日の日付が記されているから、これは今から四半世紀も昔の、平成四年に刊行された本なのであるけれども、村瀬学(むらせ・まなぶ)の『恐怖とは何か』(JICC出版社)のページを開いて、僕は読み始めている所である。多分、この本を僕は、刊行されて間もない頃に購入したような気がするので、その記憶が定かであるならば、すでに25年にも亘って、あれこれ「恐怖とは何か」と、僕は考えてきたことになる。と、このように振り返ってみても、そこに浮かび上がってくるのは僕の、いつもの好い加減さであり、よくも「恐怖とは何か」という......見る人から見れば実に幼稚な、下らない問い掛けを延々と繰り返してきたものである。と、なかば呆れ返りながら、僕は今回も君に『東海道四谷怪談』の話を続けよう。

ところで、この『恐怖とは何か』の冒頭で、まず村瀬学は「はじめに」と題し、そもそも君や僕が何かに、もしくは誰かに「恐怖」を感じる場合、その「恐怖」とは「安全からの〔、〕はずれ、あるいは安全でなくなることへの反応である」と定義づけていて――「だから恐怖について何かを問おうとするなら、私たちは同時に「安全」とは何かについて問わなくてはならない」と述べている。なるほど、確かに......そうであろう。が、いささか困ったことに、このように話を最初からスッパリと割り切られると、どうにも僕自身はピンと来ないのが実情であって、はたして「恐怖」と「安全」とは対語(antonym)であり、そのまま「恐怖」の裏返しに「安全」があるのか知らん、と何だか、よく頭の中の整理が付かない状態になってしまい、先刻からモヤモヤした時間を過ごしているのであった。

でも、その後に村瀬学が、今度は「安全であるとは、私たちの寄って立つ土台の〔、〕しっかりしている状態である」と続けているのは、よく僕にも理解の出来る話であり、この「土台」を彼が「身体」と「倫理」と「論理」に三分割しているのも、納得の行く話である。そこで、その部分を以下、簡単に要約すると次のようになる。――「ひとつは「身体」という土台の安全性にかかわる次元である。ケガをしたり、病気になったりすることへの怖れは、たえずある。〔中略〕身体は先天的に安全性を守る土台を有しており、そこからはずれると、センサーが働き、恐怖という警告を発するようにできている。〔改行〕もうひとつは、社会的な暮らしを守る、その社会的な安全性を保障してくれる「土台」についてである。それは共同体の世界、広い意味でいうところの「倫理」の土台である」。

 

おそらく、この二つ――身体と倫理――が、私たちの安全性を保障する最も基本の「土台」である。私たちは、この二つの土台の上に立って、はじめて人間らしい安全感を得られることになるのだろう。〔改行〕しかし、私はもうひとつ、ここに大事な「土台」をつけ加えておかなくてはならない。それは観念をもってしまった人間が、観念の中で完璧さを求め出したところにはじまるものである。強いて言えば「1+1=2」の世界とでも言えばよいだろうか。広い意味で言うところの「論理」の世界である。〔中略〕ここに求められるのは「完全」とか「完璧」とかいった土台である。

 

ちなみに、この第三の「土台」の例として、村瀬学が「幾何学の世界、機械の世界、コンピューターの世界」を挙げていることからも、はっきり分かるように、この『恐怖とは何か』の中で扱われている「恐怖」とは、主として近代(modern times)以降の、現代世界(modern world)が産み出した「恐怖」である。その意味において、それは「新しいタイプの恐怖」であり、とりわけ近代的(=現代的)な「都市」と、その「生活」が君や僕に齎(もたら)す、あの「対人恐怖症」(authropophobia)や「自閉症」(autism)という「新しい形の恐怖」であった。言い換えれば、そのような「都市生活」において「お互いの生きる流儀がつかめ〔つかみ?〕合えず、お互いが「他者」としてしか感じられなくなった時、私たちはそこに、新しい形の「恐怖」を感じはじめることになった」次第。

さて、ここまで来れば、きっと君は先刻来、僕が『東海道四谷怪談』の序幕(「浅草観世音境内の場」)に話を進めたくて、ウズウズ(ムズムズ?)していることを、お見通しのはず。なにしろ、これまで僕が「恐怖の哲学」という形で君に語り継いできた、いわゆる「江戸時代」とは、おそらく日本史上、君や僕が現在、都市(city)という名で呼んでいる場所や、そこでの生活(life)が、はじめて本格化をし、要は一般化をし、大衆化をし、通俗化をした時代に他ならなかったからである。その限りにおいて、あの民谷伊右衛門(たみや・いえもん)も直助権兵衛(なおすけ・ごんべえ)も、あるいは、彼らによって殺害される......四谷左門(よつや・さもん)も奥田庄三郎(おくだ・しょうざぶろう)も、ことごとく「都市生活者」(city dweller)であることが見逃されてはならない。

もちろん、彼らは君や僕のように、そのまま単純に、素朴に都市や、その生活に憧(あこが=憬)れて、自分自身の生まれ、育った場所に飽(あ)き足らず、その場所――すなわち、中国語では「郷土」や「郷里」や「故郷」や、日本語では「ふるさと」と称される場所を離(か)り、離(はな)れたのではなく、そこには逆に、はなはだ強制的な、言ってみれば、止(や)むに止まれぬ事情が介在している。それが、やがて君にも話を聴いて貰(もら)うことになる、例の「忠臣蔵」や「赤穂記」の世界であって、その点、最初から彼らは「都市生活者」であったのではなく、むしろ「都市生活者」となった側の人間である。が、よく考えてみれば、そのような種々の理由を通じて、人生の途上において「都市生活者」となった人間の住み、暮らす場所こそが、そもそも都市であった訳である。

江戸は、そのような都市の典型であったことを、まず君や僕は弁(わきま)えておくべきであろうし、そのような江戸の、さまざまな「都市生活者」が集まり、屯(たむろ)する場所の代表として、鶴屋南北(つるや・なんぼく)は『東海道四谷怪談』の冒頭の「浅草観世音境内の場」を設定しているのであり、このような「場所」(locus)と、その「配置」(location)の中に姿を見せる、ある種の「地霊」(genius loci)こそが、お岩であったに違いない。なお、もともと浅草(あさくさ)とは字面の通りに、そこが海に近い、浅い草の生い茂る地であったことが、その命名の由来であり、それは「浅草観世音」を祀る、浅草寺(せんそうじ)の門前町であると共に、そこは明暦三年(1657年)以降、あの「遊郭」の象徴であった吉原(よしわら)が、日本橋から移築された場所でもあった。

要するに、このようにして「浅草観世音境内の場」とは、そこが観世音(かんぜおん)すなわち観音菩薩(かんのん・ぼさつ)の鎮座する、神聖な空間でありながら、その遠景には赤々と、吉原に点(とも)る「くるわ」(郭=曲輪)の灯が、まるで不夜城のように浮かび上がる、俗悪な場所(=悪所)でもあった訳である。また、そうであるからこそ、そこには数多くの売春婦(買春婦?)たちが、いわゆる公娼も私娼も含めて、この世の地獄を味わっていたのであり......意外にも、その中の一人が四谷左門の娘、お袖であった。その意味において、お袖が最初、登場する際に「ゆかたを着て、ようじ〔楊枝〕を拵えてゐる」のは偶々(たまたま)ではなく、この「ようじ」には聖(→楊柳観音)と俗(→吉原「見返柳」)とが入り乱れる、重要な役目が課せられていたことにもなるであろう。

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