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『東海道四谷怪談』を読む(第六回)――「教養」の来た道(280) 天野雅郎

君や僕が今、江戸時代と呼んでいる時代は、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の語釈に従えば、そもそも「徳川氏が政権を握り、幕府を江戸に置いていた時代」のことであり、したがって、その出発点と瓦解点は、まず「慶長八年(一六〇三)、徳川家康〔とくがわ・いえやす、1542-1616〕が江戸に幕府を開いた時から、慶応三年(一八六七)、徳川慶喜〔とくがわ・よしのぶ、1837-1913〕が大政を奉還するまでの約二六〇年間」として把握するのが、さしあたり、ごく普通の理解であったろう。また、この時代には「武士が社会の指導者としての地位を確立し、庶民生活も大きく向上した。鎖国政策で外国との接触は少なかったが、この時代における文化の蓄積は、近代における欧米文化の受容に大きな役割を果たした」と、さらに『日本国語大辞典』の説明は続いている。

要するに、このようにして江戸時代は「武士」の側から見れば、いわゆる「幕府」が鎌倉に成立し、それが室町から江戸へと引き継がれた、計675年の支配の歴史に、終止符が打たれた時代にも当たっていた訳である。が、これを馬鹿の一つ覚えのように、例のごとく「いい国(=1192年)作ろう、鎌倉幕府」と、半世紀(50年!)近くにも亘って憶えて(憶えさせられて?)きた側からすると、いささか残念な気が......しないではないけれども、これまた『日本国語大辞典』には「現在〔、〕これを採る研究者は〔、〕ほとんどいない」のが実情のようであり、それに代わって「文治元年(一一八五)説(守護・地頭の設置)が有力」と補われているから、これを単純に差し引きすれば、目下、武家政権の歴史は675年から682年へと、わずかながらも引き延ばされたことにもなるであろうか。

 

鎌倉幕府(1185年~1333年、計148年)

室町幕府(1336年~1573年、計237年)

江戸幕府(1603年~1867年、計264年)

 

ともあれ、このような「武士」(=武家)や「幕府」の歴史も、それに先立つ「公家」や「朝廷」の歴史も、生まれた以上は滅んでいくのが条理であり、道理であって、そのような歴史の転変の、どの時代に生まれ落ち、生まれ合わせるのかは、それを運命(destiny=既定)という語によって、それぞれの「武士」が受け止めるしかない、何かであったろう。その意味において、例えば鶴屋南北(つるや・なんぼく)の『東海道四谷怪談』に登場する「武士」たちが、はなはだ「武士」らしくない態度を取ったり、行動を選んだりしていても、それが果たして、どこまで当人の責任であるのかは、きっと君や僕の理解を、はるかに超えているし、その限りで言えば、そこに彼らの善や悪や、美や醜や、ましてや真や偽の判断を持ち込むことは、人間の尺度の及びえないものでもあったに違いない。

とは言っても、もし仮に君や僕が、このような『東海道四谷怪談』の時代を生き、そこで運悪く、誰かを殺したり、誰かに殺されたりする羽目に、おちいらざるをえなかったとしたら、その際にも君や僕は、やはり人間の価値観(sense of values)に目を塞ぎ、そこに定められている、あるいは善と悪の、あるいは美と醜の、あるいは真と偽の線引きを忘れ去り、これを踏み躙(にじ)ることが出来るのであろうか。――おそらく、そうではないからこそ、あの民谷伊右衛門(たみや・いえもん)自身が「武士」であることに、最後の最後まで、異常な執着を持つことになるのでもあるし、また、さらに佐藤与茂七(さとう・よもしち)にしても小汐田又之丞(おしおだ・またのじょう)にしても、彼らは別の意味で、また違った「武士」の面目を保とうとして、躍起になっていたのでもあった。

ところで、この『東海道四谷怪談』が初演の折に、そこに抱き合わせで『仮名手本忠臣蔵』を同時に興行する、実に魅力的な、斬新な手法を採用していたことは、これまで何度か、僕は君に紹介済みであるけれども、つい先刻、名を挙げたばかりの佐藤与茂七と小汐田又之丞が、何と現実に赤穂義士、四十七士のメンバーに名を連ねていたことも、この場で君に報告をしておくべきであろう。なにしろ、それをしておかないと、この物語の中で佐藤与茂七ならぬ矢頭右衛門七(やとう・えもしち)と、小汐田又之丞ならぬ潮田又之丞(うしおだ・またのじょう)が、一方の『東海道四谷怪談』の舞台から、もう一方の『仮名手本忠臣蔵』の舞台へと、雪の降り頻る中、まさしくタイム・スリップを遂げ、あの宿敵、吉良上野介(きら・こうずけのすけ)の館に討ち入ることは不可能であったから。

さて、こうして物語は、いよいよクライマックスへと至るのであるが、このクライマックス(climax)という語は元来、ギリシア語(klimax)に由来しており、その語義は梯子(はしご=階子)であった。したがって、その梯子を掛けて、これを一段一段、上った先に姿を見せるのがクライマックスであった訳である。が、そのような梯子が舞台の上に、あらかじめ設定されている、いわゆる虚構(fiction)の梯子であれば、いさ知らず、これが現実の梯子となれば、その梯子が倒れることも、あるいは外されることも、場合によっては、その梯子の先に、また別の梯子が姿を見せることも、別段、不思議ではないのであって、その意味において、そもそも君や僕の生きている、この現実にはクライマックスなど、存在せず、せいぜいクライマックスの錯覚のみが存在する、とも言えそうである。

事実、このようにして『東海道四谷怪談』では、この物語の大詰に至り、急に雪が「どろどろ、はげしく〔中略〕しきりに」降り、その雪の中で到頭、民谷伊右衛門は佐藤与茂七によって、と言うべきか、お岩の操(あやつ)る「心火」(しんか)や「鼠」(ねずみ)によって、その最期を迎えることになるのであるが、その雪は上述のごとく、この物語の初演(1825年)から80年近く前に降っていた、あの『仮名手本忠臣蔵』(1748年)の雪へと、そのままワープ(warp=なげる+まがる+たわむ+ひずむ......)を遂げることにもなるのであれば、その先に今度は、そこから50年近く前に降っていた、と言うよりも、そこに積もり、実際の赤穂義士、四十七士の踏み締めた、元禄十五年(1702年)十二月十四日深更から翌日未明へと及ぶ、討ち入りの雪に重ね合わされることにもなるのである。

なお、このようにして通称、元禄・赤穂事件を振り返るに当たり、やはり君や僕は本稿の冒頭に立ち戻り、ほかならぬ江戸時代が武家政権の時代(すなわち、武家時代)であったことを、もう一度、確認しておくべきであろうし、そのためにも、とりあえず押さえておくべきは「武家諸法度」(ぶけ・しょはっと)であったはずである。――と言った辺りで、そろそろ紙幅も尽きてきたようなので、以下に江戸時代に「武士」であることは、どのような立場と態度と、その制約を課されるものであったのかを、例の「文武弓馬の道、専(もっぱ)ら相嗜(あいたしな)むべき事」から始まって「万事、江戸の法度に応じ、国々所々に於(おい)て、これを通行すべき事」へと至る「武家諸法度」の、特に『仮名手本忠臣蔵』と『東海道四谷怪談』に繋がる箇所を抜き出しておいたから、ご一読を。

 

一、江戸幷(ならび)に何国に於て、縦(たと)い何等の事、之(これ)在ると雖(いえど)も、在国の輩(ともがら)は其(そ)の所を守り、下知(げち)相待つべき事。

一、何処(いずく)に於て、刑罰の行なわるると雖も、役者〔=役人〕の外、出向せず、但(ただ)に検使の左右に任すべき事。

一、新儀を企て、徒党を結び、誓約を成すの儀、制禁(せいきん)の事。

一、諸国主幷に領主等、私(わたくし)の争論、致すべからざる事。

一、本主の障(さしさわ)り、之有る者は、相抱うるべからず。若(も)し叛逆、殺害人の告げ有るは、之を返すべき事。

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