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『東海道四谷怪談』を読む(第七回)――「教養」の来た道(281) 天野雅郎

あれこれ長い間、勉強を続けていると、当然のことながら、だんだん勉強の楽しさや喜びも分かってきて、それまで当たり前に考えていたことが、むしろ当り前ではないことに気付き、やれやれ常識とは手枷(てかせ)になり足枷(あしかせ)になるものだな、と感じることも度々である。まあ、このような感慨も含めて、あの孔子も「志学」(=15歳)から始まり「従心」(=70歳)に至る、みずからの「生」の六段階説を唱えたのであろうが、僕に言わせれば、この行程自体は多くの人が、それ相応の生活や人生を積み重ねていれば、おのずと辿り着くべき境地であり、このような視界が開けないのであれば、それは逆に、その人の生活や人生に何らかの落ち度があったり、躓(つまず)きがあったりするのではないか知らん、と僕には思えるのであるけれども、さて君は、いかがであろう。

 

 吾、十有五而志乎学(吾、十有五にして学を志す)

 三十而立(三十にして立つ)

 四十而不惑(四十にして惑わず)

 五十而知天命(五十にして天命を知る)

 六十而耳順(六十にして耳順〔したが〕う)

 七十而従心所欲、不踰矩(七十にして心の欲する所に従い、矩〔のり〕を踰〔こ〕えず)

 

とは言っても、このような事態は別段、生活や人生が順風満帆に送られていれば、それで到達可能な段階を、指し示しているのではなかろうし、それどころか、そのような順風満帆な歩みからは結果的に、例えば「不惑」(=40歳)という態度や、あるいは「知命」(=50歳)という認識は、おそらく導き出されえないのではなかろうか。おまけに、ここには多分、自分自身が「志学」の折に「志学」からは、さらに「而立」(ジリツ)の際に「而立」からは、いちばん懸(か)け離れ兼ねない事態が、存在しているのであり、その点、孔子の「生」の六段階説は、きっと彼の「生」の努力目標を掲げたものでもあったに違いない。その意味において、はたして君や僕は自分自身の、その当面の努力目標を、きちんと掲げつつ、そこに向かって、まっすぐ歩を進めることが出来ているであろうか。

ちなみに、この点で振り返ると、あの『東海道四谷怪談』の登場人物(character)たちは、民谷伊右衛門(たみや・いえもん)にしても直助権兵衛(なおすけ・ごんべえ)にしても、あるいは伊藤喜兵衛(いとう・きへえ)にしても、一口で言えば、このような人間の通常の、本来の成長過程を外れ、逸脱し、それにも拘らず、その逸脱状態を何らかの抜け道を介して、それが殺人(murder)であれ毒薬(poison)であれ、補填し......補い、填(うず)め、填(ふさ)ごうとしている男たちであった。そして、その限りにおいて、彼らの選び取った行動は「悪」(=亜+心)という名で呼ばれうるものであり、呼ぶしかないものでもあろうし、それを日本語では「わるい」とか「にくい」(→憎)とか、ひいては「みにくい」(→醜)とか、このような言い回しで呼び習わしてきたのでもあった。

もっとも、その点では『東海道四谷怪談』から『仮名手本忠臣蔵』へと、そのままタイム・スリップ(time slip=時間滑走)を遂げることになる、例の佐藤与茂七(さとう・よもしち)にしても小汐田又之丞(おしおだ・またのじょう)にしても、彼らは違った意味で、それぞれ通常の、本来の人間の成長過程を逸脱した側に属しており、そのまま彼らを赤穂義士、四十七士のメンバーと重ね合わせることが許されれば、当時――すなわち、元禄十五年(1702年)の段階で、佐藤与茂七ならぬ矢頭右衛門七(やとう・えもしち)は何と、討ち入りの時点では弱冠17歳の、いわゆる「志学」の齢に当たり、もう一方の小汐田又之丞ならぬ潮田又之丞(うしおだ・またのじょう)ですら、いまだ35歳であり、こちらは「而立」から「不惑」への、ちょうど中間点に達していたに過ぎなかったのである。

このようにして振り返ると、彼らの中で「従心」(=70歳)を超えていたのは、あの堀部安兵衛(ほりべ・やすべえ)の義父、堀部弥兵衛(ほりべ・やへい)が唯一であり、これに「耳順」(=60歳)の5人と「知命」(=50歳)の4人を加えても、ようやく10名となり、さらに大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)を始めとする「不惑」(=40歳)の6人を付け足しても、まだ残りのメンバーは倍近く(31名)を数えることになる。内訳を示しておくと、先刻の矢頭右衛門七と並んで、このグループの最年少(16歳)であった大石内蔵助の長男、主税(ちから)が「志学」(=15歳)で2人......ここから急に数が増えて、いまだ「志学」の途上にあった、20歳代が13人、いちばん多いのが「而立」(=30歳)の16人となり、これで合わせて、計47名の赤穂義士、四十七士となる訳である。

もちろん、そもそも人間の「若さ」や、これを裏返しにした「老い」など、時代によっても、個人によっても、千差万別であって、一概に個人の成長を年齢で推し測ったり、重ね合わせたりすること自体が、それほど意味のある行為である訳では、ないことは分かり切っている。が、それでもリーダーの大石内蔵助の45歳を筆頭にして、彼らの切腹時の平均年齢が、たかだか38歳から39歳であったことは、やはり忘れられてはならず――要するに、彼らの多くは端的に言うと、その名の通りの「不惑」を待たずに、さながら惑(まど=迷)いの最中(さなか)に命を落としたことになるのであって、もし仮に、この場で彼らが命を落とさなかったとすれば、それ以降、彼らの目(め→ま)は誰を訪(と)い、何を問(と)うことが出来たのであろう、と僕自身は、やはり気にならざるをえない。

なぜなら、本稿の冒頭にも書き記したように、僕自身は「学」の楽しさや喜びは、おそらく10代や20代ではなく、それに引き続く30代に始まり、40代に深まって、これが一定の落ち着き所(すなわち、天命)を弁(わきま)えるに至るのが、どうやら「知命」(=50歳)ではないのか知らん、と考えていて、その点、この段階に達する前に「学」を放棄して、これを投げ出したり、逃げ出したりするのは人間の、最大の不幸に等しい、と見なしている側である。であるから、君には「若さ」に特有の、まさしく若気(わかげ)の至りや若気の過ちを、うまく擦(す)り抜けて......その代わり、何かを要領よく、切り抜けようとしたり、こっそりと誰かを出し抜こうとしたりせず、おかしな言い方をするようであるけれども、君が運好く、上手な「老い」を迎えることが叶うように、願っている。

と、なにやら今回は思ってもみない、予想外の展開になったのであるが、ふと想い起こすと、この『東海道四谷怪談』や『仮名手本忠臣蔵』という物語に対して、僕が今でも興味を持っているのは、ひょっとすると幼年期や少年期の体験とは別に、例の蜷川幸雄(にながわ・ゆきお)が昭和五十六年(1981年)に監督した、まさしく「青春映画」の『魔性の夏・四谷怪談より』(松竹)の記憶を、どこかで僕が引き摺り続けているからなのではなかろうか、と感じることがある。その点、これらの物語は僕には、このような「青春映画」に特有の、ある種の悲喜劇(tragicomedy)として上演され、鑑賞されるに相応しいものであって、それを歴史上、文字どおりに一期一会の場において、舞台に乗せた鶴屋南北(つるや・なんぼく)は、それだけで卓越した、その「老い」を迎えていた訳である。

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