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『東海道四谷怪談』を読む(補遺一)――「教養」の来た道(284) 天野雅郎

昨年来、暫(しばら→しまら)くの間、僕が君に鶴屋南北(つるや・なんぼく)の『東海道四谷怪談』の話を、し続けてきたのは......と書き始めると、まずもって君は僕が括弧(カッコ)という名の、この妖しい記号(!)の中に振り仮名を振ったこと自体を、不審の思いで眺めているのかも知れないね。でも、このようにして君や僕が当たり前に、この「括弧」という記号を日本語に差し挟むようになったのは、実は「中国で〔イギリス人〕宣教師A=ワイリ〔Alexander Wylie, 1815-87〕が数学書〔ユークリッド『幾何原本』〕の翻訳に記号と共に「括弧」という語を用いた」のが最初であって、それが「他書を介して日本に入り、『工学字彙』〔1886年〕や『改正増補和英語林集成』〔1886年〕に収録されて一般化した」ものであったことを、おそらく君は知らなかったのではあるまいか。

と、かく言う僕自身が、この「括弧」の語誌を『日本国語大辞典』(2006年、小学館)で目にするまでは、ごく普通に、何の違和感もなく、丸(まる)括弧や鉤(かぎ)括弧を日本語として、日本語の中に差し挟んでいたのであるから、お恥ずかしい限り。まあ、その点において振り返れば、君にしても僕にしても、そもそも「日本語」が近代(=明治時代)以降、このようにして中国語や英語や、あるいは仏蘭西(フランス)語や独逸(ドイツ)語の影響下に、その軛(くびき=首木)を介して産み出され、今に至るものであることを、まったく忘れてしまっているのであって、そのこと自体を、もっと切実に、もっと深刻に、受け止めるべきではなかろうか。論より証拠、このようにして「括弧」一つを取り上げても、それが産声を上げてから、たかだか130年余りを過ぎただけなのである。

言い換えれば、このようにして「日本語」が生まれ――そこに、要は「日本人」や「日本国」が姿を見せる、その「19世紀」という時代に際して、すでに四半世紀(すなわち、25年)を経た段階で、鶴屋南北の『東海道四谷怪談』は舞台に乗せられていたのであり、それを遠い、昔の江戸時代の枠に封じ込めるのではなく、むしろ逆に、そこから君や僕の許へと流れ出す、新しい時流を汲み取ることは出来ないのか知らん、と僕は考えている次第。したがって、今年(2018年)は奇しくも、ちょうど授業(「恐怖映画」を哲学する)の最終回(新暦1月31日)が「忠臣蔵」の、あの討ち入りの日(旧暦12月14日深更~15日未明)に当たっていたこともあり、僕は君に「忠臣蔵」の外伝(anecdote=秘話)でもあった、お岩と民谷伊右衛門(たみや・いえもん)の悲恋物語を喋り出したのである。

と書き継ぐと、いかにも奇を衒(てら)った言い回しのように、君は感じるかも知れないけれども、例えば『東海道四谷怪談』に収められている「夢の場」(大詰)等は、僕に評させれば、まさしく悲恋物語以外の何物でもないのであって、実際、そこでは『百人一首』の崇徳(すとく)院(=崇徳天皇)の、あの「瀬(せ)を速(はや)み/岩(いは)に堰(せ)かるる/瀧川(たきがは)の/割(わ)れても末(すゑ)に/逢(あ)はむとぞ思(おも)ふ」(第77番)が持ち出され、この歌の通りに情熱的な、お岩の悲恋物語が繰り広げられている。いや、これを単に一概に、お岩の側の悲恋物語と受け取るのは早計であり、あさはか(当て字→浅墓)であるのかも知れないね。なにしろ、この「夢の場」の「夢」それ自体を見ているのは、ほかならぬ民谷伊右衛門であった訳であるから。

 

 風の音して、竹に結びし七夕の短冊、ひらひらと落ちて来たるを......

 伊右衛門「こりゃ、七夕へ奉(ささ)げる百人一首の歌の内。瀬を速み、岩に堰かるる瀧川の」

 岩「割れても末に、逢はむとぞ思ふ。割れても末に。(ト、伊右衛門が顔を、ぢっと見て)逢ふて給はれ、民谷さま」

 伊右衛門「ヤ、さう言ふ、そなたは」

 岩「岩に堰かるる、その岩に、思ふ男は、お前ならでは」

 

ちなみに、この「夢の場」が設定されているのは「七夕」(たなばた=棚機)であるから、ここでは当然、お岩が織女星(ショクジョセイ→おりひめ)に見立てられているのに対して、民谷伊右衛門の方は牽牛星(ケンギュウセイ→ひこぼし)の役回りである。したがって、一年に一度だけ、この夜に限って、後者は天の河を渡り、前者を訪ねることが許されている。とは言っても、これは当時の、いわゆる旧暦七月七日の話であったから、例えば今年(平成三十年→2018年)のカレンダーを捲(めく)ってみると、それは新暦8月17日に当たっているし、君や僕が目下、7月や8月を想い起こす折は、そこに夏の真っ盛りのようなイメージが伴うけれども、もともと「七夕」自体は、秋の行事(すなわち、節供)であり、その点、三月三日(=上巳)や五月五日(=端午)と扱いは同じである。

それゆえ、この「夢の場」においても舞台には、先刻のように最初から、君や僕にも馴染みの深い「七夕の短冊竹(たんざくだけ)」や「唐茄子」(とうなす)が設(しつら)えられていて、その「辺(あたり)は、萩(はぎ=艸+秋)の盛り。百姓家。秋の体(てい)」と、この場の道具立てを『東海道四谷怪談』は説明している訳である。そして、その百姓家に何故か、お岩が「模様(もやう)やつし、夏なりの振袖(ふりそで)、在所娘(ざいしょむすめ=田舎娘)のこしらへ」で坐っており、その上で約束どおりの、織女星に相応しい「糸車」を回している。――「七夕の見得(みえ)よろしく、空には月を引き出す。舞台は、蛍(ほたる)群がる。〔伊右衛門〕天の川、浅瀬(あさせ)白波(しらなみ)更(ふ)くる夜(よ)を。〔岩〕怨(うら=恨)みて渡る、鵲(かささぎ)の橋」

なお、このようにして「鵲の橋」を渡るのは、ご本家の中国の「七夕」(音読→シチセキ)では女性の役割であり、日本のように男性の務めではないことも、君や僕は忘れてはならない。その繋がりを踏まえれば、これまた『百人一首』の中に含まれている、大伴家持(おおとも・の・やかもち)に擬せられた「七夕」の歌(鵲の/渡せる橋に/置く霜の/白きを見れば/夜ぞ更けにける)にしても、これを女性の作として理解し、鑑賞することは可能であろうし、その意味において、この『東海道四谷怪談』の「夢の場」を産み出し、そこに遣(や)って来たのは、ほかならぬ女性の側の、お岩であったことにもなるのではなかろうか。とは言っても、その「夢の場」に「切子燈籠(きりこどうろう)」を灯して、あの『牡丹燈籠』よろしく姿を見せるのは、やはり民谷伊右衛門ではあったが。

さて、このようにして辿り直すと、実は鶴屋南北の『東海道四谷怪談』には、君や僕が普段、余り意識することのない、さまざまな文化的要素や歴史的要素が複雑に結び付き、絡まり合い、それらが「テキスト」(text)として、その名の通りに「織物」(textile)のごとき錯綜態を成しているのが、よく分かるはずである。なお、わざわざ僕が本稿の冒頭に「括弧」を差し挟み、そこで「暫(しばら→しまら)く」という言い回しに、君の注意を惹いておいたのも、その理由は同一であり、僕の知る限り、この「しばらく」という日本語の古形であった「しまらく」を、かつて『万葉集』(巻第十四、3471)において使用した、唯一の「東歌」(あづまうた)が今回の、この一文の内容には、ひどく適切で、なおかつ痛切である、と僕には感じられたのであった。現代語訳ともども、ご一読を。

 

しまらくは(しばらくは)

寝(ね)つつもあらむを(眠り続けていたいのに)

夢(いめ=寝目)のみに(夢だけに)

もとな見えつつ(やたらと君は姿を見せて)

我(あ)を音(ね)し泣くる(僕をオイオイと、咽び泣かせるのだな)

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