ホームメッセージ台風談義(拾遺)――「教養」の来た道(316) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

台風談義(拾遺)――「教養」の来た道(316) 天野雅郎

台風の話を始めたら、どんどん台風が発生し出したので、もう台風の話は前回限りで、お仕舞い、と僕は思っていたのであるが、振り返ってみると、まず「台風談義」を君に読んで貰(もら)ったのが8月10日で、その折の台風は13号(サンサン→SHANSHAN)であった。そして、それから「お盆休み」を挟んで、その続き(承前)を読んで貰ったのが8月20日であったから、何と、この10日間に台風は、14号(ヤギ→YAGI)を皮切りにして19号(ソーリック→SOULIK)まで、六つも発生し続けたのであり、それも15号(リーピ→LEEPI)から後は、実に5日連続(!)で発生した訳であって、当然のことながら、これは統計史上、初めてのことでもあったらしい。ちなみに、それぞれの名前は、16号がバビンカ(BEBINCA)で、17号がヘクター(HECTOR)で、18号がルンビア(RUMBIA)であった。

と、このように書きながら、すでに僕は先刻来、警報(=暴風+波浪)の出ている空を見上げながら......それにも拘らず、なぜか晴れ渡り、蝉の声までもが響き渡る、あやしい「閑(しづか)さ」を経験している。(「閑さや岩にしみ入る蝉の声」)――とは言っても、このようにして松尾芭蕉(まつお・ばしょう)が『奥の細道』の中で「蝉の声」を聴いたのは、もう今から330年ばかりも昔の、元禄二年(1689年)陰暦五月二十七日のことであったから、これは陽暦に置き換えると、現在のカレンダー(=グレゴリオ暦)の7月13日に当たっていて、目下、僕の耳に届いている「ミ~ン、ミ~ン」という「蝉の声」とは、ずいぶん違う「蝉の声」でもあったはず。このような事態を、僕は以前、訪れたことのある山形の、立石寺(りっしゃくじ)の風景ともども、ふと想い起こした所である。

でも、このようにして「蝉の声」や、あるいは「蝉時雨」(せみしぐれ)という言い回しが、そもそも俳諧(→俳句)では「夏」の季語(season word)であったことを、どこかしら君や僕は曖昧にして、等閑(なおざり)にしているのではあるまいか。なにしろ、こうして今、とっくに「立秋」も過ぎ、とうとう今日(8月23日)は「処暑」を迎えているはずなのに、どうやら君や僕は「秋」の気配を、ほとんど感じることが困難になってしまっているのであるから。でも、その点で顧みれば、ひょっとすると僕は恵まれた環境に置かれていて、つい先日も、にわかに我が家の周囲を赤蜻蛉(あかとんぼ)が、驚くほどの数、群れを成して飛んでいるのを目撃し、その瞬間、今日という日が僕にとっては、よい一日であるかのごとく、ごく自然に感じることが出来たのであるから、有り難い限り。

裏を返せば、もともと「台風」や、これを遡った先に現(あらわ=露+顕)れる、あの「嵐」(あらし)や「野分」(のわき)や、つい先程、名前を挙げたばかりの「赤蜻蛉」は、すべて「秋」の季語であり、そのような「赤蜻蛉」と「蟬時雨」という語を並べること自体が、本当は変な、とても変な話なのである。それを弁(わきま)えておかないと、君や僕は例えば、あの夏目漱石(なつめ・そうせき)の詠んだ「蜻蛉」の名句の数々に、とうてい共感することは叶わないであろう、と僕は思うけれども、さて君は、いかがであろう。以下、順不同に。――「蜻蛉(とんぼう)や杭(くひ)を離るゝ事(こと)二寸」「蜻蛉の夢や幾度(いくたび)杭の先」「蜻蛉や留(と)まり損(そこ)ねて羽(は)の光」「肩に来て人懐(なつ)かしや赤蜻蛉」「生きて仰(あふ)ぐ空の高さよ赤蜻蛉」

ところで、僕が先刻来、来るのか知らん、来ないのか知らん......と、それこそ気になる誰かを、ひたすら待ち続けるかのような、じれったい思いで待ち続けているのは、その名を「シマロン」(CIMARON)と称される、文字どおりに「野の牛」のごとき呼び名の台風であるが、これは多分、スペイン語に源を有する語であろうから、このような言い回し一つを取り上げても、そこには近代以降の帝国主義(インぺリアリズム)や、まさしく植民地主義(コロニアリズム)の影がチラチラしてきて、かなり僕は頭が痛い。が、この類(たぐい=比)の頭の痛さは、それを少々、深く突き詰めれば、君や僕が「日本語」と信じ込んでいる、さまざまな言い回しの中にも、ほぼ同様の痛みを感じざるをえないであろうから、この痛みは君や僕にとっても、まったく他人事では、ありえなかったはずである。

ともあれ、この台風で到頭、今年は20号を数えることになった。この調子で行けば、いったい今年は年内に、どれほどの数の台風が日本列島に襲来することになるのであろう。とは言っても、これを単純に、多いと見るのか――それとも見ないのかは、君や僕の視点(viewpoint)の問題であり、要は、そこに何十年単位の、あるいは何百年単位の、はたまた何千年単位の尺度を持ち込むのかで、おのずと答えは違ってくるに違いない。また、それを君や僕が結果的に、どの程度の関心(interest)を持ちながら、どのような拡がりで受け止めるのかで、その解釈(interpretation)も相当に異なってこざるをえず、事実、例えば平安時代の貴族階級が、あの「野分」という雅語を使い、これを字面どおりに、野を分ける風と解釈した時も、そこに一体、どの程度の関心が含まれていたのであろう。

と言ったのは、目下、僕は膝の上に、山本健吉(やまもと・けんきち)の『基本季語五〇〇選』(1986年、講談社)を置いていて、そのページを捲(めく)りながら、パソコンのキーボードを叩いているのであるけれども、この歳時記の「野分」の項には、例えば藤原定家(ふじわら・の・さだいえ)の『六百番歌合』の歌(「荻〔をぎ〕の葉に変はりし風の秋の声やがて野分の露〔つゆ〕くだくなり」)が載せられていて、ついでに、その傍らに彼の編纂した、あの『百人一首』の文屋朝康(ふんや・の・あさやす)の歌(「白露に風の吹きしく秋の野は貫〔つらぬ〕き止めぬ玉ぞ散りける」)を連ねてみても、いっこうに構わないのであるが、これらの歌が実際の、現実の「野分」の折に詠まれたのではなく、あくまで「歌合」の際の題詠に過ぎなかった点は、やはり忘れられてはならない。

言い換えれば、このような「歌合」の場の「野分」とは、そこに荒々しい、おそるべき台風の姿や、それが実際に、現実に多くの人の生活や人生を損ない、台無しにする......そのような台風の苛酷さではなく、むしろ平和な、安定した風景の中で、そこに「秋」の景物である「玉」(=真珠)のごとき「露」が置かれ、逆に男女関係の結び付き難さをも暗示しつつ、この「野分」は表現されているのであり、そこに幾ら、高度な文学表現の技巧(テクニック)が持ち込まれ、それが熾烈な、激しい批評精神(クリティシズム)を伴っていたとしても、それは所詮、雅語の次元の応酬であり、決して健全な、俗語の世界と通じ合うものでは、ありえなかった次第。そうであればこそ、そこに一方で柳田國男(やなぎた・くにお)の、より原初的な「野分」探しも、始まらざるをえないのではあるが。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2019 Wakayama University