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和漢学入門(第一回)――「教養」の来た道(317) 天野雅郎

和歌山(わかやま)は古来、その名の通りに、和歌(音読→ワカ、訓読→やまとうた)の神様の鎮座する場所である。であるから――と書き継ごうとして、さて、その後を何と繋いだら、よろしいのか知らん、と僕は先刻来、腕組みをしている所である。とは言っても、僕が生まれて初めて、和歌山の土を踏んでから、実に足掛け28年にも及ぶ、この間には、ひょんな縁から「和歌」の講読会に僕は誘われ、数年後には、その会(「万葉わかな会」)を主催する羽目にまで陥り、そこから奈良時代の『万葉集』と平安時代の『古今和歌集』を経て、とうとう鎌倉時代の『新古今和歌集』をも、ことごとく読み切るまでに至ったのであるから、これは多分、和歌山が和歌の神様の鎮座する場所であることを抜きにして、ほとんど成り立ちようのない、奇遇であり、奇縁であったに違いないのである。

そして、そのような奇遇や奇縁は結果的に、えんえん続いていて......たしか、このブログでも以前に、と調べてみると、やはり昨年(平成二十九年→2017年)の3月の終わりに「和漢の調べを楽しむ」と題して、僕は当時、スタートして間もない『和漢朗詠集』の講読会のことや、あわせて、その前から続けていた『百人一首』の講読会のことを、あれこれ君に聴いて貰(もら)っている。こちらの方は、その名も「和歌浦万葉塾」と言って、まさしく和歌の神様の、お膝元(ひざもと)である和歌浦(わかうら→わかのうら)で、和歌の講読会を催すのが趣旨である。と言い出すと、なにやら和歌の神様には足や膝があって、いわゆる擬人化(personification)の「なれのはて」のようであるから、気が引けるけれども、無論、神様は神様である以上、人とは何の関わりもないので、念のため。

ちなみに、このような擬人的な神観念を、どのように脱け出し、捨て去るのかが、おそらく宗教という難物と付き合う際の、いちばん重要な点でもあって、そこに常に人の形をした、男や女の性(音読→セイ、訓読→さが)を求め出すから、君や僕の宗教との付き合いは、そのまま人と人との関係(すなわち、男女関係)に近いものになってしまい、ややもすれば、ややこしいものになってしまうのでもあった。が、よく考えてみたら、そのまま「性」とは漢字の字面の通りに、君や僕の心が植物(=草+木)の芽のように、そこに芽を出し、芽を吹いている状態を、さしあたり連想すれば充分なのであって、そこに雄蕊(おしべ)だとか、雌蕊(めしべ)だとか、要は後から、くっついて出て来るものに、君や僕の心が囚(とら)われ過ぎると、君や僕は「性」の囚人のようにもなりうる次第。

その点、君や僕が和歌を読(よ)んだり、場合によっては、みずから詠(よ)んだりする際にも、心得ておく必要があり、心掛けておかなくてはならないのは、その「和歌」の「和(わ)する歌」である根拠(reason=理由→理性!)を、この語が日本語で「なごやか」とか、あるいは「やわらぎ」とか、このように訓読することが出来るように、その根拠を人と人との揉め事や争い事に置いてはならない、という点ではなかろうか。事実、かつて『万葉集』から『古今和歌集』を経て、やがて『新古今和歌集』へと至った「和歌」の歴史は、決して「和歌」が「相聞」や「恋歌」としてのみ、成り立つのではなく、そこには絶えず、それを補完する「挽歌」や「季節」(=四季)の歌が配され、その中で、はじめて「相聞」や「恋歌」は正当な位置を獲得する、という歴史であったはずである。

その意味において、いつも抒情詩(lyric=竪琴歌)は抒情詩だけで、独り歩きをすることは出来ず、してはならず、するべきでもないのである。であるから、そこに上手に、と言っては語弊があるが、君や僕は上手く、どうにかして叙事詩(epic=吟踊歌)との繋がりを見出さざるをえないし、それは『万葉集』から『古今和歌集』を経て、やがて『新古今和歌集』へと至った「和歌」の歴史が、そのまま実証している点でもあれば、そこには和歌ばかりか、さらに紀行や随筆や日記や物語をも含む、日本文学全体の歩みが指し示されている。――と、何ともスケールの大きい話であるが、実は、そのような歩みの中に、あらかじめ君や僕は巻き込まれているし、巻き込まれざるをえないのであって、その分、気の済むまで抒情詩に浸り切っていても、構わない(......^^;)のではあるけれども。

さて、いささか長い(長過ぎる?)前置きとはなったが、このようにして僕は、くりかえし『万葉集』を読んだり、あるいは『古今和歌集』や『新古今和歌集』を読んだり、はたまた『和漢朗詠集』や『百人一首』を読むことで、そこに自分自身の中を流れている、言ってみれば、和語(音読→ワゴ、訓読→やまとことば)の歴史と出会い、これを確認したり、想起したり、場合によっては、絶望したり、しているのであるけれども、このような作業は困ったことに、ほとんど一定年齢以上の、俗に言う「高齢者」の参加や賛同を得るに過ぎず、なかなか若い、君のような大学生の興味や関心を惹くことが難しく、新しい入会者(initiate)が見つかっても、ほとんど長続きをしないし、いわゆる「イニシエーション」(initiation)の対象者となることは、きわめて稀なのである。残念ながら。

と言う訳で、そろそろ今回の表題の説明である。まあ、この表題を見て、君が忽(たちま)ち、僕の意図を読み取ってくれるのであれば、それに越したことはないのであるが、おそらく、昨今の日本(日本語?)で「和学」や「漢学」と言っても、いっこうにピンと来ないのが正直な所であろうから、それを君に期待するのも、はなはだ酷であろう。ましてや、この二つの語を合わせて、くっつけた状態の語を作り、これを「和漢学」と呼んだとしても、せいぜい、それは医学(=和漢方)や薬学(=和漢薬)の一種かな、と思われるのが関の山で、その山を越え、はるばる君が「和学」と「漢学」の合成体としての、例えば――英語で言えばcompound(→composition)とかsynthetic(→synthesis)とか、そのような姿の「和漢学」にまで辿り着いてくれるのは、いくら何でも、無理だよね。

でも、このように説明しただけでも、最低限、僕が意図しているのが従来の、おそらく明治時代の頃までは普通に、ごく当たり前に使われていた、いわゆる「和学」と「漢学」の合成体であることは、君にも充分、理解して貰えるのではあるまいか。また、それは逆に、君や僕が昨今、いわゆる「日本学」(ジャパノロジー/ジャパン・スタディーズ)や「中国学」(シノロジー/チャイナ・スタディーズ)という名で呼んでいるものとは、いささか性格を異にするものであることも、お察しの通り、と言うしかない。要するに、このようにして今回から、しばらく君には「夏休み」の宿題という形で......ようやく始まった、大学生にも高校生にも、中学生にも小学生にも、ずっと遅れた、僕自身の「夏休み」の勉強成果を伝えていくことにしたい。題して、それを「和漢学入門」と呼んでおく。

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