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和漢学入門(第二回)――「教養」の来た道(318) 天野雅郎

和漢学という名の、よく訳(わけ)の分(わか)らない、和漢(わかん......^^;)ない語を使い出したので、今回から少し、この語の説明を始めたい。まず、この語は一応、和漢の学である。と言うことは、そもそも学(ガク→呉音、漢音→カク)である以上は、この学を学(まな)んだり、要は――真似(まね)をしたり、習(なら)ったり、慣(な)れたりすることが必要であって、そのような場所や建物のことを、君や僕は現在、学校と総称している訳である。が、もともと学校は昨今、近代(=明治時代)以降になって誕生したものではなく、その歴史は近代以前にも、近世(=江戸時代)にも中世(=室町時代+鎌倉時代)にも古代(=平安時代+奈良時代)にも遡りうるのであり、そのこと自体、次のような『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の「学校」の語釈で明らかであろう。

 

一定の設備と方法によって、教師が児童、生徒、学生に継続的に教育を施す所。日本では近江朝に始まり、大宝令で制度化された。その後、時代により変遷し、現在は、教育基本法、学校基本法などで設立、運営されている。学校教育法では小・中・高等学校、大学、短期大学、高等専門学校、盲学校、聾(ろう)学校、養護学校、幼稚園をいい、料理学校などの各種学校は〔、〕これに含めないが、通称としては各種学校も含めて広く用いられている。学院。学黌。

 

ちなみに、最後に「学黌」とあるのは、そのまま「ガッコウ」(黌→黄)と読んで構わない。そこで、あらためて『日本国語大辞典』を引き直すと、例えば戦国時代の国語辞書(『運歩色葉集』)には、こちらの字が使われているようである。とは言っても、むしろ僕個人が興味を惹かれるのは、この「黌」という字が「学」(→學)と「黄」とを組み合わせて、作られている点であって、その点で振り返れば、実は「黄」という字が元来、白川静(しらかわ・しずか)の『字統』(1984年、平凡社)にも述べられているように、最初は「衰老の色」であったにも拘らず、これを中国(すなわち、漢字)では、やがて「土色とし、中央の色とし」た上で、さらに「三歳以下を黄、十歳以下を小」とする伝統が、引き継がれたことである。その点、この「黌」と「學」との間にも微妙な違いはある。

と言ったのは、このような伝統を踏まえると、単純に「学校」とは「十歳以下」の子供を対象とし、少なくとも、それに見合った、相応しい年齢(=就学年齢)でスタートを切る、ある種の制度(システム)であったのに対して、何と、それ以前の「三歳以下」の時点で、そのような乳幼児をも含めて、早々に開始されるのが「学黌」であり、これを当世風の言い回しに置き換えれば、それは昨今流行の、いわゆるエリート(elite=選良)を養成するための「早期教育」(early education)や「英才教育」(special education for brilliant/gifeted/talented children)であったのではないか知らん......と思えてくるから、困った話である。その点で振り返れば、この「学黌」という語が日本の場合には、どうやら江戸時代に用いられた語であったらしいのも、なるほどな、と感じられてくる。

もちろん、このような思わせ振りな言い方を僕がしているのも、それは日本史の教科書あたりで、君も習ったであろう、あの「昌平黌」(ショウヘイコウ)のことが、僕の頭の中をチラチラしているからに他ならない。その意味において、先刻の『日本国語大辞典』の「学校」の語釈の後に、同辞典が置いている「語誌」の項は、なかなか面白く、いろいろ参考になるから、これを次に引いておこう。――「大宝令で、中央に大学、地方に国学が置かれ、官吏を養成した。平安初期には、藤原氏の勧学院、和気氏の弘文院、空海の綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)などの私学が生まれ、平安中期以後は、官吏の世襲により学校は衰えたが、中世には北条実時の金沢文庫、上杉憲実の足利学校が開かれた。禅宗寺院の塾は寺子屋の源流になり、江戸幕府は昌平黌をはじめ、専門学校を設立した」。

要するに、このような言い回しは明快に、これまで「学校」が日本史上、もっぱら「官吏」(カンリ)を養成するための機関として誕生し、現在に至る、という事態を君や僕に指し示している。そして、その「官吏」(=官人→役人!)を養成するための機関である「学校」が、うまく機能する時代もあれば、機能しない時代もあり、その衰退や衰亡の理由は「官吏の世襲」に起因する、と『日本国語大辞典』は説いている訳である。とは言っても、それは無論、このような「学校」を産み出した側の評価であり、思惑(おもわく)であって、それを今度は、白川静の『字訓』(1987年、平凡社)で補うと、端的に「そのような機関による中央の地方統制が、古代王朝を組織する重要な方法をなしていた。学は王朝の形成とともにはじまるのである」と言い換えても、まったく構わないであろう。

それならば、ますます「学校」とは日本史上、それどころか世界史上、それぞれの地域や時代の、その折々の「貴族の子弟を都に集めて教学することを〔、〕しるして」いたのであって、その点で顧みれば、そもそも「学(まな)ぶ」ことが「真似」(まね)の「同根の語」(同上)であったことも、君や僕にとっては、いささか薄気味の悪い気がしないではない。が、言うまでもなく、そのような「学校」に当然のごとく、あたりまえのように通い、通わされてきた側の、君や僕にとっては、そこに行かなくても大丈夫だとか、行かなくても差し支えないとか、このように言い切ること自体が、どだい無理な注文なのであって、むしろ重要なのは「学校」と適当に付き合い、これを利用したり、利用しなかったりする、要は、いい加減な「学校」との関係を構築し直すことなのではあるまいか。

と、このようなことを言い出したのは、ひょっとすると君が、このような「学校」のことで悩んだり、傷ついたり、嫌(いや=否)になったりして......いるのではないか知らん、と僕が老婆(老爺?)のような心を抱いているからに他ならない。でも、このようにして振り返れば、よく分かるように、もともと「学校」は当初、まさしく「日本国」(『旧唐書』)の誕生と時を同じくして、君や僕の生きている、この国に姿を見せたのであり、それが延々、今に至るまで引き継がれている所を見ると、そうそう簡単には、消えて無くなるものではないらしい。けれども、そのような「学校」にも確実に、うまく機能する時代と機能しない時代があって、どうやら現在は、その内の後者の時代に当たっているようなのである。なにしろ、昨今の「学校」は大学も含めて、ほぼ壊滅状態であったから。

さて、そろそろ紙幅も尽きてきたから、これ以上、この話を続けるのは控えるが、このようにして「学校」の語一つを取り上げても、君や僕は自分の周囲の、身近な地域のことを、短い時間の幅で考えているだけでは見えてこない、見通すことの叶わない、時間と空間の地平は存在しているのであり、そのような地平(horizon=視界)を伴わない頭の使い方は、頭の使い方として間違っているし、有効性を欠くのである。であるから――と言っても、ほとんど君を説得する力は欠くのかも知れないが、まず手始めに「学校」や、そこで営まれている「教育」が、さしずめ日本的なものではなく、いつも中国的であったり、ヨーロッパ的であったり、はたまたアメリカ的であったりすることを、君の若い頭は、やはり顧(かえり=省)みるべきであり、それを決して、見誤ってはならないのである。

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