ホームメッセージ和漢学入門(第四回)――「教養」の来た道(320) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

和漢学入門(第四回)――「教養」の来た道(320) 天野雅郎

権力が道を敷く、とりわけ、本道や正道と称されるものには、その性格が顕著である。なにしろ、もともと「道」(訓読→みち、音読→ドウ)とは驚くべきことに、あの白川静(しらかわ・しずか)の『字統』(1984年、平凡社)にも記されているごとく、どうやら「首を携えて道を行く意で、おそらく異族の首を携えて、外に通ずる道を進むこと、すなわち除道(じょどう)の行為をいうものであろう。道を修祓(しゅうふつ)しながら進み導くこと、それが道の初義であった」らしいのであるから、これは驚きを通り越して、むしろ恐怖である。と、このような事態を知らされても、それほど恐ろしいとか、怖~いとか、感じなくなっているのが――要は、君や僕が権力の近くに、い過ぎて、権力に寄り掛かることを、あたかも日常茶飯事のように見なしている、証拠なのであったけれども。

ともあれ、もう少し続けて、白川静の『字統』の叙述を借り受けると、このようにして「外部に通ずる道は、外族やその邪悪なる霊に接触するところであるから、除道のための儀礼は厳重を極めるものがあった。〔中略〕また外部との境界である門にも、呪禁(じゅきん)としての敵酋(てきしゅう)の首を埋めることが多かった。〔中略〕このように、首はその道路・関門を祓(はら)う厭勝(えんしょう→まじない)として、強い呪力をもつものとされたのである。〔中略〕このようにして啓(ひら)かれたものが道であり、人の安んじて行くところであるから、人の行為するところを道といい、道徳・道理の意となり、その術を道術・道法といい、存在の根源にあるところの唯一者を道という。道は古代の除道の儀礼の意より、次第に昇華して、ついに最も深淵な世界をいう語となった」。

ウ~ン、惚(ほ=恍)れ惚れするような叙述だな、まったく......と僕は若い頃から、このようにして白川静の辞書(三部作→『字統』『字訓』『字通』)を引きつつ、唸(うな=呻)り声(?)を上げるのを、これまた日常茶飯事にしている。が、それは翻れば、ある種の権力の近くに僕がいて、僕が権力に、寄り掛かっていることではないのか知らん、と君が疑問に思うと困るので、付け加えておくと、どうやら世間一般の漢字学者や、ひいては中国学者の間では、とうてい白川静の辞書は支持を得ているとは言い難く、言ってみれば、それは漢字研究の、本道や正道を行くものではなく、むしろ邪道や横道を行くものであるかのごとく、見なされているようなのである。言い換えれば、この場で僕が君に紹介した、先刻の「道」の説明も、ほとんど専門家は相手にしないものであったらしい。

そう言えば、たしかに僕が日頃、手許に置き、高校生(!)の時分から使っている、貝塚茂樹(かいづか・しげき)他編の『角川漢和中辞典』(1959年、角川書店)にしても、あるいは時折、電子辞書に収められている分、便利なので引いている、藤堂明保(とうどう・あきやす)他編の『漢字源』(2006年、学習研究社)にしても、まるで前掲の「道」の説明に繋がるような、これに近い解字の項は見出されえないのであって、なにやら悲しいような――でも、正直に言うと、けっこう嬉しいような、曰(いわ)く言い難い思いで僕は、白川静の辞書を繙くのを常としている。そう言えば、と繰り返すけれども、たまたま先日、その、反白川静派の代表、藤堂明保の『漢語と日本語』(1969年、秀英出版)を読んでいて、そこに「あきれはてた辞典」という罵倒を、僕は見出した所でもあった。

ところで、僕が今から半世紀近くも前に刊行された、この『漢語と日本語』という本を書架から引っ張り出し、読み直し始めたのは他でもない。僕が今回、このようにして「夏休み」の宿題という形で君に届けている、この「和漢学入門」の「和漢学」とは、もともと僕自身が何時の頃からか、どうにも「日本語」と呼ばれる「語」(ゴ→呉音、漢音→ギョ)を読んだり、書いたりしている際、それを読めば読むほど、書けば書くほど、そこには不可解な、違和感や不審感が生じ、これを拭い去ることが困難であったからである。そして、その折、どうやら「日本語」とは単純に、そもそも昔から、あたりまえに存在していたものではなく、わずか百年余り前には、むしろ「日本語」は「和語」や「漢語」であり、そのように言い換えた方が適切だ、という当然の事実に行き当たったからである。

とは言っても、このような物言いが現在の、君のような大学生世代にピンと来ない点があるとすれば、それは君が、これまで一体、どの程度の文字を読んだり、それを自分の手で、書いたりしてきたのか知らん、という点を振り返れば充分であろう。そうすれば、きっと君と僕のような「高齢者」世代との間には、とてつもない亀裂が開けていることを確認できるはずである。言い換えれば、このようにして常時、驚くべきことに、ほとんどの文字をパソコン等に頼り、要は、機械(machine→mechanism→メカ!)に書いて貰っている、この十年来の僕の経験を、その腑抜けぶりも含めて、君は不幸にも、はなはだ若い頃から強制され、強要され、それに追随しないと、まるで文字の読み書きの叶わない人間であるかのような烙印を押される、不条理きわまりない時代を生きているのであるから。

論より証拠、君はパソコン等で文字を入力する際に、僕と同様、まず平仮名で――と言うよりも、まずアルファベット(=アルファ+ベータ)で、その文字を入力し、それを適当な漢字や平仮名や、あるいは片仮名に変換し、これを「日本語」と称しているのであろうが、このような一連の操作自体が、はなはだ屈折した、幾重にも折れ曲がった、頭の使い方や手の使い方や、おまけに目の使い方を強いるものであったことは、火を見るよりも明らかである。そして、それを日常、その名の通りの茶飯事として、ご飯を食べたり、お茶を飲んだりするかのようにして、えんえん繰り返すに連れて、だんだん、どんどん、君や僕は「日本語」から遠ざかり、乖離(カイリ)し、その「読み書き力」(literacy=文字力)を低下させていくことも、これまた明々白々の事実であったのではなかろうか。

なにしろ、君や僕は下手をすると、このような作業を通じて端的に、漢字が書けなくなってくるし、それを放置しておくと、ひょっとすると平仮名や片仮名まで書けなくなる時代が、訪れないとも限らないからである。要するに、それは幾ら、文字が読めても、文字が書けない、という事態に君や僕を追い込むことになるであろうし、それは昨今の日本人が幾つになっても、いい年をして、まるで子供と同じ......かつて文字を書くことを学び始めて間もない頃の、グチャグチャ、ヒョロヒョロの文字しか書けなくなっていることとも繋がり合っているのかも知れないね。まあ、それでも君が、そのような愁嘆場を物ともせず、あいかわらず下手な文字を書き続け、恥かしがることも、悪びれることも、なくなってしまっているのであれば、それは後の祭としか、言いようがないのであるけれども。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2019 Wakayama University