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和漢学入門(第五回)――「教養」の来た道(321) 天野雅郎

藤堂明保(とうどう・あきやす)の『漢語と日本語』(1969年、秀英出版)に続いて、今回は君に、僕が大学生の頃に授業を受けたこともある、鈴木修次(すずき・しゅうじ)の『漢語と日本人』(1978年、みすず書房)を紹介しておきたい。と言い出すと、なにやら似た(似過ぎた?)表題の本の紹介になってしまい、けっこう気が引けるけれども、これは別段、僕が意図したことではないので、ご容赦を願いたい。......と書きながら、つらつら想い起こすと、どうやら僕が鈴木修次の授業を受けたのは、正確には大学院生の時分であって、それが、この『漢語と日本人』の方であったのか、それとも同年に東京書籍から刊行された『中国文学と日本文学』の方であったのか、うろ覚えではあるが、いずれにしても、これらの本を教科書(テキスト)として、購入した記憶が僕には残っている。

と書き継いで、先刻来、我が家の本棚を探していると、そこには当時、僕が手に入れた『漢字再発見』(1983年、PHP研究所)や、あるいは同年、これまた東京書籍から刊行された『数の文学』も見つかって、それは結果的に僕が、すでに広島大学の助手(→助教)をしていた頃の本であったことが分かる。なお、これらの本の著者略歴を見ると、鈴木修次(先生)は東京文理科大学(→東京教育大学)を卒業後、北海道教育大学の講師を経て、母校の助教授(→准教授)となり、それから広島大学の教授となって、定年を迎えるのが昭和六十二年(1987年)のことであった。そして、そこから更に大阪教育大学の教授ともなり、亡くなったのは二年後のことである。――「中国文学専攻。文学博士。東方学会、日本中国学会会員。第15・16・17期の国語審議会委員をつとめる。一九八九年、死去」

このようにして振り返ると、例えば前回、僕が君に紹介しておいた、藤堂明保の生年は大正四年(1915年)で、その没年は昭和六十年(1985年)であったから、ともに「大正生まれ」という点では、藤堂明保と鈴木修次は同世代であって、後者の場合、その生年は大正十二年(1923年)である。と言い出すと、さすがに君もピンと来てくれるであろうが、残念ながら......そのことを余り、期待できないのも昨今の大学の実情であって、それこそ大正時代が何年、続いたのかも、そこから始まった昭和という時代が、今度は何年、続いて、その間には「満州事変」から「日中戦争」を経て「太平洋戦争」へと至る、いわゆる「十五年戦争」が日本を覆い、とうとう人類史上初の「被爆国」にまで、この国が転落した事態を、ほとんど昨今の大学生は知らなかったりするのであるから、おそろしい話。

もちろん、ある時代が何年、続くとか、その時代が何という名で呼ばれるとか、このような話は全部、人間の捏造(ネツゾウ)した、要は「作り話」(fiction=虚構)に過ぎない訳であって、このような「作り話」に君や僕の頭が雁字搦(がんじがらみ→がんじがらめ)にされてはならないし、そのような頭の使い方から自由に、解放された状態になるために、君や僕は「大学」(university→universitas→universus→universe)に通う必要があるのでもある。が、それと同時に忘れてはならないのは、やはり人間は人間(ニンゲン→ジンカン)であり、人が生きるのは単に独(ひと)りの、一(ひと)つの世界ではなく、そこには東西南北、上下左右の空間軸と、これに過去・現在・未来の時間軸が絡み合う、その名の通りの世間(音読→セケン、訓読→よのなか)が厳存しているのである。

であるから、そのような世界や世間や、要は「人間」であることを、君や僕は知らなくてはならないし、これを弁(わきま)えるべきでもあり、そのためにこそ和歌山大学の教養教育は、その理念に「人間になるための教育」(the art of being a human)を掲げ、今に至っている。したがって、仮に君や僕が今から百年も前の、その名を「大正時代」と呼ばれている時代について、その時代を生きていなかったとか、だから――興味がないとか、関心がないとか、詰まる所、関係がないとか、このような幼稚な、子供にも言える捨て台詞(せりふ→訓読、音読→ダイシ)を吐くのは間違っている、と僕は思うけれども、さて君は、いかがであろう。第一、このようにして今から、ほぼ一世紀を隔てた、はるか昔の時代が君や僕にとって、ことのほか面白い時代なのであれば、なおさらであろう。

ところで、さきほど僕が大正十二年(1923年)という年号で、さすがに君もピンと来てくれるであろう、と言ったのは、言うまでもなく、この年が例の、関東大震災の勃発した年であったからに他ならないが、それに因(ちな)んだ形で、たまたま先日、僕は鷲田清一(わしだ・きよかず)編の『大正=歴史の踊り場とは何か』(2018年、講談社)という本を、僕にしては珍しく、新刊本で購入し、読んでいて、そこに「現代の起点を探る」という副題ともども、以下のごとき興味津々の「序」の一節を見つけ出したのであった。それに加えて、なぜか僕は最近、とは言っても、この数年来の話であるが、僕は無性に川端康成(かわばた・やすなり)や、その延長線上で、横光利一(よこみつ・りいち)の小説を読みたくなっていて、これを読まずにおくものか、と意気込んでいた折でもあった。

裏を返せば、僕は子供の時分から、ご多分に漏れず、あれこれ川端康成の作品を、それが小説であれ、随筆であれ、評論であれ、読んではきたけれども、それが好い読者の態度であったとは、とうてい言い切れず、どこか川端康成を年老いた、古臭い小説家のように僕は見なし、それゆえ、その読書も滞りがちであったのが正直な所である。いわんや、横光利一をや。......と言い出すと、そこには随分、突拍子もない飛躍があるけれども、ともあれ僕は、これまで横光利一の小説を、わずかな短篇以外、目を通したことがなかったのが実情である。ところが、そのことが無性に、最近、悔まれ出し、このままでは後悔一入(ひとしお)なのではないか知らん、と考えていた時に、たまたま上記の鷲田清一の本に出合い、そこに山室信一(やまむろ・しんいち)の次のような羅針盤を発見した次第。

 

作家の横光利一は、関東大震災について「日本の国民にとっては、世界の大戦と匹敵したほどの大きな影響を与えている」(『読売新聞』)と書いた。だが、その衝撃の意味は東京の市街が瓦解したということ以上に、復興によって新しい都市が形成されていったときに出現してきた「近代科学の具象物」が、その時代を生きる「人間の感覚」を大きく変容させたということにあった。〔改行〕横光は、大震災とその復興によって変わらざるをえなかった「人間の感覚」を表現するためには、それまでの純文学が否定していた偶然性を重視し、近代小説の知的高度さと物語的伝統とを〔、〕ともに生かした小説の言語を創出することが不可欠であると考えた。横光が「もし文芸復興というべきことがあるものなら、純文学にして通俗小説、このこと以外に、文芸復興は絶対に有り得ない」として提唱した「純粋小説」というジャンルは、その要請に応えようとしたものであった。

 

さて、そろそろ紙幅も尽きてきたので、この話の続きは、また次回――と行きたい所ではあるが、ここで最後に、このような「大正時代」に僕個人が思い入れを持っている理由を、君に伝えておくことにしよう。お察しの通り、この本の中の「大震災」とは、それが関東大震災であるばかりか、今の君や僕の生きている、この百年後の日本で頻発する、さまざまな「大震災」をも含意しており、その意味において、この本の中の「大震災」とは、あたかも百年前の日本と今の日本とを、二重写しのようにして映し出す、スクリーンでもありえた訳である。そして、そのようなスクリーンの上に、僕は百年前と百年後の日本人の一人として、僕と僕の父親を映し出したい誘惑に駆られている。それと言うのも、僕の父親が産声を上げたのは、大正十二年、ちょうど関東大震災の起きた年であったから。

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