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横光利一覚書(承前)――「教養」の来た道(324) 天野雅郎

何故、横光利一(よこみつ・りいち)のことが急に気になり出したのか、よく分からないけれども、よく分からないなりにも......考えてみれば分かることは、あるのであり、そう言えば、僕は一昨年、授業で岩波文庫版の『日本近代随筆集』(2016年)を読んでいた折、その第二巻(「大地の声」)の中に、すでに彼の「鵜飼」(うかい)を発見していたのでもあった。「どこかで計画しているだろうと思うようなこと、想像で計り知られるようなこと、実際これは〔、〕こうなる、あれは〔、〕ああなると思うような〔、〕何でもない、簡単なことが渦巻き返して来ると、ルーレットの盤の停止点を見詰めるように、停(とま)るまでは動きが分らなくなるという魔力に人はかかってしまう。どこで〔、〕どんなに違うのかと思う暇もなく、停ると同時に早や次の運動が波立ち上り巻き返す」。

いやはや、かなり難解な書き出しである。まるで狐に撮(つま=抓)まれたような、それとも、それを通り越し、すっかり不機嫌になってしまった君の顔が見えるようである。ただし、このようにして「鵜飼」の話をするのに、これほど面倒な物言いから話が始まらざるをえなかったのが、おそらく当時の、この随筆を横光利一が物(もの)した時代の特徴でもあれば、まさしく、その「現在」(present=贈物)を生きている、横光利一という作家の個性(パーソナリティー)でもあって、それを踏まえないと、例えば彼の、次のような言い回しも君や僕には、皆目、見当の付かないものになってしまうであろうから、ご理解を。ちなみに、この時、昭和十四年(1939年)は彼が数えの42歳を迎えた年でもあれば、例えば君のような大学生に、大学での「軍事教練」が必修化された年でもあった。

 

思想の体系が一つの物体と化して撃ち合う今世紀の音響というものは、このように爆薬の音響と等しくなったということは、この度(たび)が初めであり〔、〕また最後ではないだろうか〔中略〕。それぞれ人々は何らかの思想の体系の中に自分を編入したり、されたりしたことを意識しているにちがいない現在、――いかなるものも、自分が戦争に関係がないと云えたものなど一人もない現在の宿命の中で、何を考え、何の不平を云おうとしているのであろうか。

 

戦争の時代である。であるから......という言い方自体が、まったく論理性を欠くけれども、この年には二度に及んで、内閣(=近衛文麿内閣+平沼騏一郎内閣)が総辞職をしているし、実際に日本と中国との間の戦争(「日中戦争」)は泥沼化し、それにも拘らず、その一方で「ソ連」との間には「ノモンハン事件」が起こり、ヨーロッパでは「第二次世界大戦」が始まっている。なお、この年に日本で公布された法律や勅令を拾い上げてみると、それは以下の通り。国民職業能力申告令、警防団令、兵役法(改正)、人事調停法、軍用資源秘密保護法、会社利益配当および資金融通令、映画法、宗教団体法、米穀配給統制法、国民徴用令、価格等統制令、米穀強制買上省令、兵役法施行令(改正)、白米禁止令、小作料統制令、物資使用収用令、工場事業場収用令、土地工作物管理使用収用令。

再度、戦争の時代である。そして、そのような戦争の時代の只中(ただなか)を、生まれてから死ぬまで、えんえん横光利一は潜(くぐ)り抜けたのであって、それを順次、数え上げれば、彼が7歳の折(明治三十七年→1904年)の「日露戦争」の勃発に始まって、それから40年後の、48歳の時(昭和二十年→1945年)の「太平洋戦争」の終戦(と言うよりも、敗戦)へと辿り着く。もちろん、その間には先刻、述べたばかりの「満州事変」や「日中戦争」や、さらには「ノモンハン事件」が差し挟まれているし、これらを総称して、君や僕は目下、いわゆる「十五年戦争」(1931年~1945年)という語を宛がっている訳である。また、これらの戦争には当然ながら、その背後に「第一次世界大戦」(1914年~1918年)と「第二次世界大戦」(1939年~1945年)が、世界規模で控えてもいる。

ところで、そのような横光利一が亡くなる直前、その没年(昭和二十二年→1947年)の年頭に小林秀雄(こばやし・ひでお)と交わした、短い対話が遺されていて、それを今年の初春、これまた「教養の森」ゼミナールという授業を通じて、たまたま僕は読む機会を得ていた次第。しかも、この対話は以前、このブログ(→「日本人の宗教心」)で君に紹介したことのある、あの『直観を磨くもの』(2014年)という名の、新潮文庫版の「小林秀雄対話集」に収められていて、そこには当時、すでに獄中で非業の死を遂げていた、三木清(みき・きよし)との対話(「実験的精神」)が相前後して並べられており、それだけでも充分、衝撃的である上に、この二人(すなわち、小林秀雄と横光利一)の対話は次のような前者の挨拶で始まっている。――「横光さんの病気は〔、〕ながかったね」。

これに対して、横光利一は「まだ半年かかるよ。病気を〔、〕あまりしたことがなかったので〔、〕病気というものは捨てたものではないと思った」と答えている。おまけに、この対話自体は「近代の毒」と題されているけれども、その「毒」とは「科学の毒」でもあれば「文学の毒」でもあり、ひいては、それらを産み出した「ジャーナリズムの毒」でもあって、この点に関しても、二人は興味ぶかい対話を繰り広げているので、ご一読を。なお、この対話から「半年」が立ち、逆に横光利一は吐血をし、やがて胃潰瘍と腹膜炎を併発し、この年の大晦日、この世を去ることになるのであるが、その晩年......と称するには、あまりにも早過ぎる晩年を、彼は「病気」と共に過ごした訳であり、この対話の際の「病気」も彼が前年に脳溢血の発作を起こし、療養中であったことを指し示している。

 

横光 話は違うが〔、〕ジャーナリズムにも毒がありますよ。

小林 それはジャーナリズムが非常に大きな精神の消費面であるにもかかわらず、文化の活潑(かっぱつ)な生産面だと錯覚する処(ところ)から来るのだ。横光さん、戦争がすんでから書きましたか。

横光 書かないよ、世間も自分も〔、〕どこまで新しくなるのか面白いので、うまく言葉が見つからないのです。

小林 御病気のせいでしょう。

横光 年のせいかも知れませんよ。初めて年とった価値が分って来た、非常に新しくなって来た、年とるのも新しさだ。

小林 体を大事にして〔、〕いいものを書いて下さいよ。無理をしてはいかん、ジャーナリズムの毒に〔、〕あたらんようにね。

 

人間同士の言葉の遣(や)り取りには、このようにして常に、皮肉めいたものが付き纏(まと)う。とりわけ、それが横光利一と小林秀雄のごとく、みずから「ジャーナリズムの毒」を喰らい、貪り続けてきた人間同士であれば、なおさらであろう。が、それは単に彼らの個性(パーソナリティー)が、そのように彼らを仕向け、追い遣ったばかりではなく、むしろ彼らの生まれ、育った時代が私たちの国で、このような「ジャーナリズムの毒」を生み、育んだ時代でもある、という点を抜きにしては成り立たないし、言ってみれば、彼らの中毒症状は引き続き、今の君や僕にも引き継がれ、それどころか、より危険に満ちた、それでいて、より魅力に溢れた、要は、とびっきりの悪魔的(デモーニッシュ)な姿態で、ますます時代を支配する因子となりえているのであるから、事態は深刻である。

その点、このような「ジャーナリズムの毒」の申し子として、横光利一が明治三十一年(1898年)に、小林秀雄が明治三十五年(1902年)に、それぞれ20世紀の黎明と相前後して、この世に生を享けた世代であることは振り返られて然るべきであろう。その意味において、この時期に例えば、はじめて私たちの国に映画が輸入され、これを見て、まさしく夢見た世代の中から、日本の最初の映画俳優、とりわけ女優が誕生するに至るのは印象的である。と言って、僕が小林秀雄と、まったく同年に産声を上げた、栗島(くりしま)すみ子を始めとする、綺羅星たちの名を連ねても、きっと君には暖簾(のれん)に腕押しであろうが、それでもスターは、やはりスターなのである。......葉山三千子(はやま・みちこ)岡田嘉子(おかだ・よしこ)浦辺粂子(うらべ・くめこ)柳(やなぎ)さく子。

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