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泉鏡花論(第二回)――「教養」の来た道(326) 天野雅郎

今回は最初に、まず『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を繙(ひもと=紐解)き、そこに次のような、泉鏡花(いずみ・きょうか)の紹介文が載せられているのを確認することから話を始めよう。多少、前回の繰り返しとなる点もあるけれども、補足を交えた上で、ご一読を願いたい。――「小説家。本名、鏡太郎〔きょうたろう〕。石川県金沢〔市下新町23番地〕に生まれる。尾崎紅葉〔おざき・こうよう〕の門下。はじめ「夜行巡査」〔やこうじゅんさ〕「外科室」〔げかしつ〕などの観念小説を発表、のち「湯島詣」〔ゆしまもうで〕「高野聖」〔こうやひじり〕で作風の完成をみ、神秘的、浪漫的世界を展開した。ほかに「照葉狂言」〔てりはきょうげん〕「歌行燈」〔うたあんどん〕「婦系図」〔おんなけいず〕「滝の白糸」など。明治六(一八七三)~昭和一四年(一九三九)」

さて、いかがであろう。泉鏡花が生まれたのは、このようにして今から、ちょうど145年前のことであり、亡くなったのは、厳密に言うと79年前に当たる。したがって、現在の君や僕から見れば、ずいぶん昔の小説家になるし、それどころか、この「小説家」という語が誕生してから、まだ間もない頃の、彼は作家であった訳である。なお、この「小説家」という語を英語のノヴェリスト(novelist)の翻訳語として、あの坪内逍遥(つぼうち・しょうよう)が『小説神髄』(明治十八年→1885年)の中で使ってから、まだ当時は、それほど時間が経っておらず、例えば二葉亭四迷(ふたばてい・しめい)の『浮雲』(明治二十年→1887年)や森鷗外(もり・おうがい)の『舞姫』(明治二十三年→1890年)が世に出るのと、ほとんど同時期に、泉鏡花は作家としてのスタートを切ったことになる。

その点、前掲の『日本国語大辞典』の「観念小説」という言い回しも、おそらく君には何のことやら、よく分からないであろうから、これも同辞典の説明文を添えておくと、ここに言う「観念小説」とは「作者の抱いている〔、〕ある観念を作品中に明白に出した小説」のことであり、それは「特に明治二〇年代末に流行した、個人と社会的倫理との矛盾から生ずる悲劇などを主題とした小説」を指し示している。と前置きをして、その代表作に『日本国語大辞典』が挙げているのが、泉鏡花の『夜行巡査』と『外科室』と、それから川上眉山(かわかみ・びざん)の『書記官』であった。と言うことは、このような「明治二〇年代末」の、とりわけ「日清戦争」(明治二十七年~二十八年)の「戦後文学」の一翼を担って、いわゆる「観念小説」の作家、泉鏡花は文壇に登場するに至った次第。

ちなみに、もし君が高校生の時分、意外や意外、熱心に受験勉強に励んでいて、その一夜漬けの記憶が幸運にも、まだ君の頭の中に留まっているのであれば、ひょっとすると君は「観念小説」という語に加えて、このような「個人と社会的倫理との矛盾から生ずる悲劇などを主題とした小説」の仲間に、さらに「悲惨小説」や「深刻小説」や、あるいは「社会小説」の名を想い起こすことが出来るのかも知れないね。それならば、このような文学的系譜の中から、やがて大正時代になると、今度は「プロレタリア文学」が姿を見せることも、君は了解済みであるに違いない。まあ、それよりも僕個人は、このような「明治二〇年代末」の「社会小説」の一員に、德冨蘆花(とくとみ・ろか)の『不如帰』(ほととぎす)や尾崎紅葉の『金色夜叉』を仲間入りさせる方が、ずっと興味深いのであるが。

ところで、このような形で文壇デビューを果たした、まだ二十歳(はたち)を過ぎたばかりの泉鏡花は、そのまま「観念小説」の作家として、その経歴を積み上げていったのではない。それどころか、もう翌年(明治二十九年→1896年)には『読売新聞』に、彼は『照葉狂言』を連載していて、これが先刻、名を挙げた『湯島詣』(明治三十二年→1899年)や『高野聖』(明治三十三年→1900年)へと繋がり、彼の「作風の完成」を見るに至る訳であるから、これは中村光夫(なかむら・みつお)が『明治文学史』(1963年、筑摩書房)で述べているごとく、当時の「観念小説」の作家たちの「社会的正義感は、格別の思想的根拠があったわけでなく、社会の矛盾を追及する意欲より、むしろ物語の新しい題材として〔、〕それらの現象に食指を動かすという態度であった」と見られても仕様がない。

そして、それに代わって登場したのが、彼の「母への思慕を基調にした、独自の女性像をきずく仕事」であったと、これまた中村光夫は述べていて、端的に泉鏡花は「明治の作家のうち、もっとも魅力ある女性の創造に成功した」作家として位置づけられている。ただし、そのことによって彼の、かつて「内に潜ませた社会的正義感と、権力にたいする反抗心」は、決して消えて、なくなってしまったのではなく、むしろ、それが「弱者への同情、弱く美しい女性にたいする神秘的な崇拝として、終生〔、〕彼の作品のなかに生きのこり」続けたことを、あらためて正当に評価するべきではあるまいか、と『明治文学史』は訴えている。が、残念ながら、この宿題を同年に刊行された、筑摩書房版の『大正文学史』(臼井吉見)も『昭和文学史』(平野謙)も、どちらも果してはいないけれども。

その意味において、例えば加藤周一(かとう・しゅういち)が『日本文学史序説・下』(1980年、筑摩書房)において、反対に泉鏡花は「四〇年以上も小説を書き続けたが、その文体も、その女の好みも(意地、白い膚、胸乳)、男の好みも(職人気質、江戸弁の啖呵)、背景と小道具の選択も(雪明り、行燈、燈明、石燈籠、螢火、提灯)、超自然的な題材も、変らなかったのである」と、はっきり論じているのは流石(さすが)であるし、その「作品の魅力」が「全く部分にあり、個別の場面と、その場面での文章の〔、〕はこびにある」以上、その「凝縮の中心」は長篇小説ではなく、短篇小説にあり、それが「しばしば、そして典型的に、一種の超自然的な出来事、幽霊や憑〔つ〕きものや化物〔ばけもの〕や魔術的変化であった」と言い切っているのも、君や僕の参考になるであろう。

ついでに、この本の中で加藤周一は、泉鏡花が江戸時代の「町人文化」の流れを汲む存在であることから、話を始めている。しかも、そのような伝統(tradition=引き継ぎ)との関わりに際して、泉鏡花は師匠の尾崎紅葉をも、はるかに凌(しの)ぎ、明治時代以降に「これ以上のものは絶えてない」ほどの、文学的達成度を示していたのでもある。この辺りの叙述は、しつこいようであるが、さすがに加藤周一、一流のものであって、僕は彼が泉鏡花の両親を、父親の方は「工藝」の血を、母親の方は「能楽」の血を、お互いに泉鏡花に注ぎ込む、そのような役割分担(パート)として捉えていることに対しても、ひどく共感(sympathy=似苦)を催さざるをえないし、そのような共感は詰まる所、人間は人間の、宛がわれた役割を分担せざるをえない、という僕の信念とも重なり合っている。

 

鏡花は天下国家を無視し、その関心を全く私的な領域にかぎり、生きている女や化けて出る女に〔、〕その感覚をとぎすまし、徳川時代の小説の文章を基礎として、日本語の抒情的で同時に絵画的な散文が、響きにおいて、滋味において、緊密度において、到達し得る最高の可能性の一つを、実現した。それにくらべれば、いわゆる「自然主義」の小説家の散文は、ほとんど素人藝にすぎない。「実人生そのままの描写」を目的としたから、自然主義と共に小説家が輩出したのではなく、誰にも書ける文章を文学としたから、「自然主義」の追随者が多くなったのであろう。鏡花の後をつぐものは、稀であった。

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