ホームメッセージ泉鏡花論(第三回)――「教養」の来た道(327) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

泉鏡花論(第三回)――「教養」の来た道(327) 天野雅郎

しばらく前に、このブログで君に「横光利一覚書」という一文を読んで貰(もら)った折に、すでに紹介済みであるけれども、中村光夫(なかむら・みつお)の『日本の現代小説』(1968年、岩波書店)という本は、新書版ながら――と評するよりも、むしろ新書版であるからこそ、とても読みやすく、とても分かりやすい「日本文学史」であって、このような「日本文学史」に出会うことが、いちばん容易に「日本文学」とは何か、という問いに対する答えを、君や僕に教えてくれる近道なのではないか知らん、と僕は思うけれども、困ったことに、そのような出会いが困難であるからこそ、この『日本の現代小説』は出版以来、実に半世紀(50年!)を経ても、いまだに新本で入手することの出来る、単純な理由のようなのでもある。でも、いったい現時点で、この本は第何刷なのであろう。

ちなみに、この『日本の現代小説』には厳密に言うと、すでに14年前(昭和二十九年→1954年)に、何と、まだ僕が「オギャ~」という声を上げるよりも早く、その姉妹編である『日本の近代小説』という本が、同じ岩波新書の一冊として刊行されていて、僕は大学生の頃、これらの本をセットにして......また、それに前回、僕が取り上げておいた、いずれも昭和三十八年(1963年)に筑摩叢書の一冊として世に出た、これまた中村光夫の『明治文学史』と、さらに臼井吉見(うすい・よしみ)の『大正文学史』と平野謙(ひらの・けん)の『昭和文学史』を合わせて、これを三幅対(サンプクツイ)のごとく扱い、僕は「日本文学」好きの友人たちと勉強会を催し、これらの本を読んでいた記憶が、おぼろげながらも蘇ってくる。まあ、今から振り返れば、呆れ返るほどに古い、古い話である。

とは言っても、そのような「近代小説」や「現代小説」の、何たるかが分かり、これを「明治文学史」や「大正文学史」や「昭和文学史」として、それぞれ位置づけることが叶うのは、逆に古い、古い側の特権(privilege=個人的恩恵)ではなかろうか、という思いが僕にはある。事実、昨今、頓(とみ)に君や僕の周囲から明治時代も大正時代も、それどころか、下手をすると昭和時代――という言い回しが、どうにも僕はシックリと来ず、あまり使いたくないのであるが、ともかく、これらの時代が君や僕の周囲から次々と姿を消し、跡形も無くなりつつある状況の中で、はたして「明治文学史」や「大正文学史」や「昭和文学史」は、また「日本の近代小説」や「日本の現代小説」は、いったい何を拠り所にして、君や僕の、それぞれの経験と繋がり、重なり合うことが出来るのであろう。

その点、僕が中村光夫のような批評家(critic=判定者)の本を、ずいぶん大仰な物言いにはなるが、後生大事(ゴショウ・ダイジ)に読み続けている理由も、その辺りにあって、このような明治時代の末年に生まれた日本人は、仮に生きていれば、もう110歳近くになる訳であり......当然、ほとんどの彼ら、彼女らは鬼籍の人となってしまっている。であるから、このような日本人が経験してきた、明治時代や大正時代や昭和時代は、すでに君や僕には遠い昔の、よく訳の分からない時代になってしまっており、例えば前回、僕が君に話を聴いて貰った、おおよそ明治二十年代から三十年代へと続く、それは要するに、日清戦争の「戦後」から日露戦争の「戦前」へと至る10年間に当たるのであるけれども、それを僕は彼ら、彼女らの助けを借りることなくしては、分かりようがないのである。

もちろん、この10年間を中村光夫も、決して体験している訳ではない。が、それにも拘らず、その時代の雰囲気と言おうか――ある種の気分や気配や、その「気」(キ→漢音、ケ→呉音)の中を生きる、人間の気質や気性や、気概や気骨や気品や気量(=器量)のごときものを、きっと中村光夫は彼の父親や、あるいは母親を通じて、しっかり経験していたに違いないのである。その意味において、人間には大きく分ければ、経験(Erfahrung)と体験(Erlebnis)という名の、二つの時間の験(ため)し方や験(しる)し方が、あるのであって、それは言うまでもなく、君や僕が「文学」と呼んでいるものにも、大きな方向性の違いとなって現われるであろうし、それが時には、大きな主義主張(イズム)の違いとなって、お互いに非難し合ったり、中傷し合ったりすることさえ、珍しくはない。

日本の「近代文学」や「現代文学」を考える際に、まず君や僕が念頭に置いておく必要があるのも、その類の座標軸であって、それを端的に、この場では「浪漫主義」と「自然主義」の語で置き換えておくと、例えば泉鏡花(いずみ・きょうか)のような作家の場合、彼が日清戦争の「戦後文学」の旗手として登場し、やがて日露戦争の「戦前文学」の渦中で、その方向性を大きく違(たが)え、いわゆる「観念小説」の作家から「浪漫主義」の作家へと、その身を転じていく過程において、どのような変化が彼の中で生じたのか、また、それは彼を取り巻く、どのような時代の傾向と連動するものであったのか、そのような問題を考えていくことは、おのずと明治二十年代から三十年代へと及ぶ、この「特異な一時期」(中村光夫『日本の近代小説』)を想い起こすこととも、繋がり合っている。

 

明治二十八年に終った日清戦争から、三十八年に終った日露戦争までの〔、〕ほぼ十年間は、わが国の近代小説史のなかでも、特異な一時期をなしています。通説によると、明治四十年代の自然主義に対して〔、〕ロマンチックな文学の全盛期とされ、これを代表するものは、詩や評論であり、小説は〔、〕いわば第二線に退いたとされています。〔中略〕しかし明治文学自体を〔、〕ひとつの大きな過渡期として見れば、この過渡期のなかの過渡期は、その未熟な拡がりのなかに前の時代が考え及ばなかった多くの問題を展開し、後代が芸術的完成のために摘みとってしまった芽を〔、〕のばそうとしていた時期とも考えられます。

 

このような「過渡期のなかの過渡期」(「小説それ自身の発展史上から見ると、さまざまな可能性が芽生えた興味ある過渡期」)の作家として、さしあたり泉鏡花を位置づけることから、この「泉鏡花論」は話を始めている。その関連で、たまたま先日、僕は手塚昌行(てつか・まさゆき)の『泉鏡花とその時代』(1989年、武蔵野書房)を読んでいて、そこに「鏡花文学の変容」という章を見つけたので、その内容を君にも紹介しておくことにしよう。かいつまんで言うと、それは「鏡花文学を、内容上は社会の罪〔→観念小説〕から男女間の愛情問題〔→浪漫主義〕へ、文体上は周密文体〔→漢文脈〕から格調高い詩的な文章〔→和文脈〕へと変容させた原因について考察」し、それを「大体〔、〕四つの点を挙げることができる」と解釈するものである。以下、その要点を抜き出しておく。

 

第一は森鷗外〔もり・おうがい〕の存在である。〔中略〕第二は、競争者〔、〕樋口一葉〔ひぐち・いちよう〕の存在と同じく小栗風葉〔おぐり・ふうよう〕の台頭である。〔中略〕第三は友人からの影響である。〔改行〕友人とは、鏡花の「湯島詣」にも登場する〔、〕笹川臨風〔ささがわ・りんぷう〕、姉崎嘲風〔あねざき・ちょうふう〕、畔柳芥舟〔くろやなぎ・かいしゅう〕ら、また〔、〕それに高山樗牛〔たかやま・ちょぎゅう〕をも加え得る〔、〕帝国大学生の一団である。〔中略〕第四は、師匠尾崎紅葉〔おざき・こうよう〕の影響であり、これが理由中〔、〕最大のものなのである。

 

と、このように当時の、錚々(ソウソウ)たる顔ぶれを並べてみても、それだけで君は多分、食傷気味であろうし、ひょっとすると彼ら、彼女らの名前すら知らなかったり、その読み方が分からなかったりするのではないか知らん。分かるのは、おそらく森鷗外と樋口一葉と尾崎紅葉と、後は精々、高山樗牛くらいではあるまいか。でも、それは決して君だけの、はっきり言えば、無知蒙昧(......^^;)ではないから、ご安心を。なにしろ、このようにして明治二十年代から三十年代に掛けて活躍をした、それどころか、大活躍をした有名人をリスト・アップしても、その大半を君や僕は、ほとんど(まったく?)知らぬ存ぜぬ、の為体(ていたらく)なのであった。そして、それが何よりも、この「特異な一時期」(「過渡期のなかの過渡期」)の悲惨であり、同時に、その栄光でもあった次第。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2019 Wakayama University