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泉鏡花論(第四回)――「教養」の来た道(330) 天野雅郎

泉鏡花(いずみ・きょうか)のことを振り返る度に、いつも頭の中に浮かび上がる、一枚の写真がある。それは彼が、明治三十一年(1898年)に撮ったものと思(おぼ)しく、いまだ24歳に過ぎなかった頃の、初々(ういうい)しい写真である。とは言っても、ごく普通に24歳という年齢が、一人の人間にとって「初々しい」と呼ばれうるのか、どうかは疑わしいし、彼の場合も、すでに君に、このブログにおいて報告を済ませておいた通り、その出世作である『夜行巡査』や『外科室』は、この年を遡ること3年前の、明治二十八年(1895年)に発表されているから、もう彼は「観念小説」の作家として、いわゆる文壇への仲間入りを果たしていた訳であり、その所為(せい)もあって、彼は泉家の戸主となり、この翌年、郷里の金沢から祖母と弟を東京へと招き、居を構えていたのでもある。

なお、このようにして彼が、弱冠22歳で一家の長となったのは、その前年に享年52歳で父親(清次)が病没していたからに他ならないが、この当時の「戸主」という語のイメージが、おそらく君にはピンと来ないであろうから、念のために『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を引いておくと、そこには次のような説明が施されている。また、この前々年には郷里の生家が火事で焼失し、みずからも脚気(カッケ)を患い、決して「戸主」となることが泉鏡花にとって、望ましい選択であった訳ではないことも、押さえておくべきではあろう。――「民法旧規定での家の統率者、支配者の名称、または〔、〕その人。家長。家の系譜・祭具・墳墓の所有権を相続し、家族の婚姻・養子縁組・分家などについて絶対的支配権をもっていた。昭和二二年(一九四七)現行民法の公布とともに廃止」。

要するに、このようにして彼の青年時代や、それを遡る少年時代には、何よりも明治十五年(1882年)の母親(鈴)の逝去を引き金として、次々と彼の生涯の縦糸ともなる出来事が姿を見せていたのであって、それを数え上げれば、逆に先刻の一枚の写真は、むしろ不思議なほどに「初々しい」と、評するべきであるのかも知れないね。なにしろ、このようにして僅か9歳になったばかりの時期に母親を、これまた28歳という若さで失い、しかも、それが妹(やゑ)を産んだことに伴う、産褥熱(サンジョクネツ)であったこと、さらに、その妹も生まれて、間もない折に他家に貰(もら)われ、その上に、もう一人の妹(他賀)も3年後(明治十九年→1886年)には他家の養女となり、言ってみれば、このようにして彼が泉家の「戸主」となった際、残されていたのは、祖母と弟のみであった。

もちろん、僕は一人の人間が、その生涯を辿り始めた時に、すべてのことを決定されている、とまでは思わないけれども、それにも拘らず、おそらく一人の人間の生涯の、その原点は、幼年時代や少年時代の中に隠されている、とは考えている。であるから、例えば......あの『バビロンの流れのほとりにて』(森有正)の冒頭の一文が大学生になったばかりの「初々しい」(?)僕の胸を打ったのであろうし、そこから僕は、哲学を自分自身の生業(なりわい)とするまでに至ったのであろう。――「一つの生涯というものは、その過程を営む、生命の稚い日に、すでに、その本質において、残るところなく、露われているのではないだろうか。僕は現在を反省し、また幼年時代を回顧するとき、そう信ぜざるをえない。この確からしい事柄は、悲痛であると同時に、限りなく慰めに充ちている」。

 

君は〔、〕このことを〔、〕どう考えるだろうか。〔中略〕社会における地位や〔、〕それを支配する掟、それらへの不可避の配慮、家庭、恋愛、交友、それらから醸し出される曲折した経緯、そのほか様々なことで、この運命は覆われている。しかし〔、〕そのことは〔、〕やがて、秘〔ひそ〕かに、あるいは明らかに、露われるだろう。いな露われざるをえないだろう。そして人は〔、〕その人自身の死を死ぬことができるだろう。また〔、〕その時、人は死を恐れない。

 

さて、いささか長い、場違いな引用とはなったけれども、そもそも今回の冒頭、僕が君に一枚の写真として紹介している、その当の写真(photograph=光描)が目下、僕の膝の上には乗っている。とは言っても、それは昭和六十三年(1988年)に平凡社から出版された、雑誌『太陽』(NO.325)の表紙であって、この......今から30年も昔に、泉鏡花の没後から数えれば、約半世紀後に刊行された写真雑誌は「泉鏡花・幻想の王国」という特集を組んでいて、寡聞(カブン)ながら、この類(たぐい=比)の写真雑誌を他に知らず、これ以外に所有していない僕には、いろいろ参考になる点が多く、重宝(チョウホウ)している雑誌(magazine=倉庫)でもあった。そして、そこには折しも、これまた20年振りに泉鏡花の再評価の機運が、盛り上がっている旨の記載があって、興味を、そそられる。

と書き継いだのは、このような泉鏡花の再評価の時期と、僕が先刻、森有正(もり・ありまさ)の『バビロンの流れのほとりにて』(1968年、筑摩書房)に魅せられ、その一連の「ノートル・ダム」物(『遥かなノートル・ダム』『旅の空の下で』『木々は光を浴びて』『遠ざかるノートル・ダム』)に読み耽(ふけ)っていた頃は、ほぼ重なり合い、通じ合っていたからであり、そのことが単なる偶然のようには、僕には感じられないのである。なぜなら、おそらく僕が森有正の異国(=フランス)への「旅」に見出していたものは、かなり奇妙な物言いにはなるけれども、どこかで泉鏡花の異界(すなわち、幻想の王国)への「旅」と通じ合い、重なり合っていたのであり、その類縁性――と言おうか、相似性を抜きにして、きっと僕は泉鏡花の小説に関心を持つことはなかったに違いない。

ちなみに、これは先日、小学館の『群像・日本の作家』の第5巻「泉鏡花」(1992年)のページを捲(めく)っていて、たまたま東郷克美(とうごう・かつみ)の「泉鏡花研究史大概」を参照していた折、その書き出しに見つけたものなのであるが、このようにして「泉鏡花の復権・再評価が〔、〕いわれるようになるのは、一九七〇年代(昭和四十年代半ばころ)に入るころからであった。その機運のなかで岩波版全集が、実に三十数年ぶりに第二刷を出版し(昭48~51)、十年後には〔、〕ひきつづき第三刷が出た。かかる鏡花ブームは、ようやく行詰りの様相を〔、〕みせはじめた時代状況と深いところで結びついていたはずである」と記されていて、参考になる。そう言えば、僕が以前、君に紹介しておいた、川村二郎(かわむら・じろう)の『銀河と地獄』も、まったく同時期である。

ところで、もう一度、雑誌の『太陽』に立ち返ると、こちらにも秋山稔(あきやま・みのる)の「泉鏡花、美とエロスと幻想のテクスト」が「ブックガイド」として掲載されていて、そこには「今から二十年近く前、私は今こそ鏡花再評価の機運が起るべき時代だと信じている。と述べて、新派悲劇の原作者〔、〕泉鏡花というイメージの払拭〔ふっしょく〕を明言したのは、晩年の三島由紀夫『作家論』である」という冒頭の一文が置かれている。そして、また「これを一つの端緒として、長い間〔、〕絶版だった岩波書店版『鏡花全集』が再版されたのは、昭和四八年のこと、実に三一年ぶりであった」と、ほとんど似たり寄ったりの説明が続いているから、どうやら当時、泉鏡花ブームの起爆剤として捉えられていたのは、以下のごとき三島由紀夫(みしま・ゆきお)の賛美であった模様。

 

さるにても鏡花は天才だった。時代を超越し、個我を神化し、日本語として〔、〕もっとも危〔あやう〕きに遊ぶ文体を創始して、貧血した日本近代文学の砂漠の只中に、咲きつづける牡丹〔ぼたん〕園をひらいたのである。しかも〔、〕それを知的優越や、リラダン風の貴族主義や、民衆への侮蔑や、芸術至上主義の理論から行ったのではなく、つねに民衆の平均的感性と相結びながら、日本語の〔、〕もっとも奔放な、もっとも高い可能性を開拓し、講談や人情話などの民衆の話法を採用しながら、海のように豊富な語彙で金石〔きんせき〕の文を成し、高度な神秘主義と象徴主義の密林へ〔、〕ほとんど素手で分け入ったのである。

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