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泉鏡花論(第五回)――「教養」の来た道(331) 天野雅郎

前回は三島由紀夫(みしま・ゆきお)の『作家論』(1970年、中央公論社)の中から、そこに収められている「尾崎紅葉・泉鏡花」を引いた所で、あいにく終幕となってしまったので、今回は、その続きである。なお、この一文は前年、これまた中央公論社から刊行された『日本の文学』シリーズの第4巻に解説として書かれたものであり、この解説という語に拘りつつ、前者の「あとがき」で三島由紀夫は次のように述べている。――「私は〔、〕そもそも近代現代文学が解説をたよりに読まれる〔、〕といふ風潮を好まない。それを敢て自ら解説を引受けるのは矛盾した態度のやうであるが、私としては、かういふ好ましからぬ風潮を逆用して、一つは、改めて諸家の名作を自ら再読翫味する好機を得、一つは、解説の名を借りた作家論を積み重ねてゆく機会を得るために引受けたのである」。

と、このように書き記しながら......三島由紀夫が同年、陸上自衛隊の市ケ谷駐屯地で割腹自殺を遂げるのは、この『作家論』の刊行後、一月近く後のことであったから、この本は彼の死の直前になって出版された、ある種の遺作(posthumous work)でもあった訳である。そして、そこで彼は「気に入らぬ作家の解説は一切〔、〕引受けなかったのであるから仕方がない」と前置きをして、みずからの「文芸批評」の立脚地を以下のごとく規定しているので、ご一読を。――「私は虫の好かぬ作家のものは読まぬし、虫の好く作家のものは読む。すでに虫が好いてゐるのであるから、作品のはう〔方〕も温かい胸をひらいてくれる。そこへ一旦〔、〕飛び込んで、作家の案内に委せて、無私の態度で作中を散歩したあとでなければ、そもそも文芸批評といふものは成立たぬ、と私は信ずるものだ」。

さて、この述懐を額面どおりに受け取れば、三島由紀夫にとって「尾崎紅葉・泉鏡花」の二人は、共に「虫の好く作家」であったようである。であるから、その評価も後者の場合は、まさに「天才」という語まで冠せられるほどの、最上級のものであったけれども、このようにして「鏡花こそ大作家であり、鏡花こそ師〔=尾崎紅葉〕を凌ぐ独創的な天才であり、〔中略〕ひよつとすると、鏡花は、明治以後の日本文学の唯一人〔ただひとり→傍点〕の天才かもしれないのである」と、手放しの褒様(ほめよう)を三島由紀夫がしているのは、突き詰めると「鏡花は明治以降〔、〕今日にいたるまでの日本文学者のうち、まことに数少ない日本語(言霊)のミーディアムであつて、彼の言語体験は、その教養や生活史や時代的制約を〔、〕はるかに〔、〕はみ出してゐた」という点まで辿り着く。

なお、ここで使われている「ミーディアム」(medium)とは、例えばワインが辛口と甘口の間であったり、ステーキの肉の焼き具合が並であったり(......^^;)ともあれ、何かと何かの中位の状態を指し示しているが、ここでは言葉(すなわち、日本語)の媒体という意味であるから、霊媒と置き換えておくのが相応しい。したがって、それを「神霊や死者の霊などが〔、〕のりうつり、それらに代わって話などをすること。また、その人。霊界と現世の媒介者。巫女・口寄せの類。霊媒者」(『日本国語大辞典』)と言い直しても構わないけれども、このような「ミーディアム」の複数形が、君にも周知の、いわゆるメディア(media)なのであって、その限り、そもそも「メディアはメッセージである」(マーシャル・マクルーハン『メディア論』)ことも、君や僕は忘れてはならない点である。

であるから、このようにして泉鏡花を日本語の霊媒者として捉え、その「天才」ぶりを日本の近代の、言語史や文学史の中に位置づけるにしても、そこには必ず、泉鏡花という一人の作家の肉体や、その「言語体験」が付き纏(まと)い、前提とされざるをえないのでもあり、これらが一概に「その教養や生活史や時代的制約を〔、〕はるかに〔、〕はみ出してゐた」と断定するのは、さて、いかがなものであろう。むしろ、僕個人は三島由紀夫とは違い、泉鏡花の限られた「教養や生活史や時代的制約」こそが、実は彼の「言語体験」(Sprach-erlebnis)ならぬ「言語経験」(Sprach-erfahrung)を産み出したのではないか知らん、と考えている側である。第一、当の三島由紀夫その人が、はなはだ肉体に囚(とら=捕)われ、からめとられ、肉体に拘り続けた作家でもあった訳であろうから。

ところで、そのような三島由紀夫は泉鏡花の作品から、この『日本の文学』シリーズを編むに際し、初期作品では『黒百合』(明治三十二年→1899年)を、短編小説では『高野聖』(明治三十三年→1900年)を、戯曲では『天守物語』(大正六年→1917年)を、そして最後に、遺作(すなわち、絶筆)ともなった『縷紅(るこう)新草(しんそう)』(昭和十四年→1939年)を選び出している。なお、この遺作に関する「個人的な思ひ出」として、まだ「十四歳の中学生」の折、この本を購入するべく三島由紀夫は、みずから書店に足を運んだ由(よし)。――「祖母が鏡花きちがひ〔気狂〕で、幼時から、鏡花の初版本を瞥見する機会があつた私には、その新作を買ふことは当然のことに思はれて、渋谷の本屋で、「縷紅新草を下さい」と言つて、店員に呆れ顔で笑はれた〔、〕おぼえがある」。

このような「思ひ出」を聞かされると、にわかに三島由紀夫が昭和以前(大正十四年→1925年)に生まれた日本人であることが、逆にヒシヒシと伝わってくるし、また、このエピソードに登場する「祖母」(なつ→夏子)が、小説家となる以前の三島由紀夫(すなわち、平岡公威)に与えた甚大な影響や、そこから続けて、柳田國男(やなぎた・くにお)や永井荷風(ながい・かふう)や、あるいは谷崎潤一郎(たにざき・じゅんいちろう)との関係が、あれこれ網の目のように結ばれ出すが、それでは話が、どんどん脱線しそうなので止めておく。でも、一つだけ、このような形で少年時代の三島由紀夫を溺愛した、この「祖母」が亡くなるのは昭和十四年の年頭であったから、それは泉鏡花の『縷紅新草』が雑誌(『中央公論』)に掲載されるのと、まったく同年の出来事であった訳である。

ちなみに、そのような三島由紀夫が亡くなる日(11月25日)のことを、僕は当時、中学生であったにも拘らず......という言い方が、この場に相応しいのか、どうなのか、よく分からないけれども、いたって鮮明に記憶している。なにしろ、その日の僕は学校帰りの制服姿で、父親と並んで、テレビの前に釘付けになっていたからである。そして、そこには繰り返し、三島由紀夫が割腹自殺を遂げた折のニュースが流れていて、何度も何度も、騒然とした画面が映し出されるのを、僕は事情も弁(わきま)えず、眺めていたのであり、その時、実は父親が一言、何と呟いたのかも、しっかり僕は記憶しているが、それを書き記すのは別の機会に譲りたい。が、その時の一言が契機となり、やがて僕は近所の本屋に出掛け、三島由紀夫の文庫本を手に入れ、そのページを開くことにもなったのである。

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