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泉鏡花論(第六回)――「教養」の来た道(332) 天野雅郎

作家の年齢は「ふしぎなもの」である、という書き出しで、前回と同様、僕が君に紹介をしている、三島由紀夫(みしま・ゆきお)の「尾崎紅葉・泉鏡花」(『作家論』)は始まっている。なるほど、そのように言われてみれば、たしかに作家の年齢は「ふしぎなもの」であり、その、当の三島由紀夫自身が大正十四年(1925年)に生まれて、昭和四十五年(1970年)に45歳で亡くなっていることを、かなり「ふしぎなもの」として、僕は受け止めざるをえない。なにしろ、その三島由紀夫の享年を、はるかに越えて、僕は現在、生き延びている訳であり、それならば年上の僕が年下の三島由紀夫の作品を、そのような年齢差において読み、それに対して、あれやこれや言葉を連ねているのかと自問自答をすれば、それは......どうも違っているとしか言い様のない、何とも奇妙な関係なのである。

この点は、例えば満年齢に直すと、正岡子規(まさおか・しき)が34歳で、あるいは夏目漱石(なつめ・そうせき)が49歳で、はたまた芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ)が35歳で、それぞれ、その生涯を閉じていることを振り返るだけでも、これは「ふしぎなもの」としか言表の仕様のない、人間関係の謎めいた、まさしく文(あや=紋)のごときものであるけれども、この書き出しに続いて三島由紀夫が、次のように述べている事態を想い起こすと、より一層、その感を強くせざるをえない。――「師としての紅葉、その忠実な門弟としての鏡花を考へると、今日なほ、紅葉は美髯を蓄へた立派な明治の文豪であり、鏡花は〔、〕これよりも若い才気煥発の白面の青年といふ感じがする。ところが実際は、紅葉は三十七歳で死んでゐるのであり、鏡花は六十七歳まで生きのびたのである」。

ちなみに、ここで三島由紀夫は「美髯」(ビゼン)と書き記しているが、これは尾崎紅葉(おざき・こうよう)の生前の写真を踏まえれば、彼が蓄えていたのは明らかに、頬髯(ほおひげ→髯)や顎鬚(あごひげ→鬚)ではなく、口髭(くちひげ→髭)であるから、これは「美髯」ではなく「美髭」(漢音→ビシ)が正解であろう。それに比べれば、見るからに泉鏡花(いずみ・きょうか)の方は「ひげ」の生(は)えなさそうな(......^^;)生えたとしても似合わなさそうな、三島由紀夫の言う所の「白面の青年」であり、その意味において、この折に三島由紀夫が想い起こしていたのは、僕が前々回、君に紹介をしておいた、あの明治三十一年(1898年)の24歳の時の写真か、それとも、それは明治三十六年(1903年)に尾崎紅葉が没する折の、ちょうど30歳の頃の写真であったはずである。

ともあれ、泉鏡花が結果的に、このような「白面の青年」のイメージを宛がわれ、今に至っていることは疑いがないし、その傾向は近年、どんどん強まっているのではなかろうか。例えば、似たようなタイプには石川啄木(いしかわ・たくぼく)や、あるいは中原中也(なかはら・ちゅうや)がいるけれども、彼らは共に、文字どおりの早世(ソウセイ→夭逝)なのであって、前者は満26歳で、後者は満30歳で、この世を辞している。したがって、彼らに関連する本や雑誌の類が出版される際は、いつも繰り返し、そこに彼らの若い日の、これまた「白面の青年」の写真が使われ続けたとしても、それは至極、当然の話であり、むしろ彼らの別の写真との不整合(?)や、要は「写真映り」の良し悪しに、読者の関心が移りはしないのか知らん、と余計な心配をしてしまうのが実情なのである。

ところが、これに対して泉鏡花の場合には、先刻の三島由紀夫の引用にもあった通り、確実に彼自身は、その齢(よはひ=世延)を数えの67歳にまで、積み重ねていった訳である。と言うことは、当たり前のことではあるけれども、彼には40代の頃の写真も50代の頃の写真も、また、亡くなる直前のものも含めて、60代の頃の写真も遺されている。でも、それにも拘らず、なぜか泉鏡花の本や雑誌の類が刊行される段になると、そこに用いられるのは20代の頃の写真や30代の頃の写真が中心であり、ほとんどであって、これでは一見、泉鏡花という作家が若死をした作家であるかのように、彼を知らない読者には勘違いをされる恐れがあるであろうし、それは見方を変えれば、まるで彼が年を取らず、老いることを拒絶された作家であるかのごとき印象すら、産み出しかねない有様なのである。

その点、いかにも泉鏡花の年齢は「ふしぎなもの」である、と感じざるをえない。なにしろ、これまで君に紹介を済ませた、いくつかの作品を別にしても、彼自身は20代の頃の『照葉(てりは)狂言』や『湯島詣(ゆしま・もうで)』や『註文帳』から始まって、30代の頃の『風流線』や『婦(おんな)系図』や『歌行燈(うた・あんどん)』や、さらには40代の頃の『日本橋』や『芍薬(しゃくやく)の歌』や『由縁(ゆかり)の女』や――とにかく多くの、小説や戯曲を書き続けたからであり、このような多作ぶりは50代や60代に至って、さすがに相応の陰(かげ=翳)りを見せはしても、そこには依然として『眉(まゆ)かくしの霊』や『菊あはせ』や、ひいては『薄紅梅(うす・こうばい)』へと繋がる形で、彼の代表作は延々、まさしく生涯に亘って書き継がれていったからである。

その点、と僕は繰り返すけれども、このような泉鏡花の生涯を見通し、見渡せば、彼が「白面の青年」のイメージを伴っていること自体に、むしろ「ふしぎなもの」を見ている感じがするのであって、そこには何か、ある特定の意志の介入が先行しているのではなかろうか、と勘繰るのが普通であろう。......と、このようにして振り返れば、おそらく前回と前々回を通じて、僕が君に伝えておいたように、このような泉鏡花像は近年、とは言っても、それは今から、もう半世紀も昔のことになる訳であるが、あの三島由紀夫の『作家論』の「天才」発言を引き金にして始まった、1970年代以降に泉鏡花の再発見と再評価が産み出した、その当時に固有の、あらたな虚構(フィクション)であったのではないのか知らん、と僕は深~い、疑いの目を向けざるをえないが、さて君は、いかがであろう。

その繋がりで、この疑いの糸を手繰(たぐ)り寄せると、やはり特筆する必要があるのは、この時期、折しも昭和五十二年(1977年)の『天守物語』の上演を皮切りに、次々と泉鏡花の作品を舞台化し、なおかつ映画化した、歌舞伎役者の坂東玉三郎(ばんどう・たまさぶろう)の存在であろう。そのような意図もあって、僕は授業の中でも彼が主演し、篠田正浩(しのだ・まさひろ)の監督した『夜叉ヶ池』(昭和五十四年→1979年)や、あるいは彼自身の監督した『外科室』(平成三年→1991年)や『天守物語』(平成七年→1995年)の話をしたり、実際に、その映像を見たりもしているのであるけれども、ついでに君が興味を持ったら、彼が実際に泉鏡花役を演じた、実相寺昭雄(じっそうじ・あきお)監督の『帝都物語』(昭和六十三年→1988年)も、ぜひとも鑑賞して欲しい限りである。

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