ホームメッセージ泉鏡花論(第七回)――「教養」の来た道(333) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

泉鏡花論(第七回)――「教養」の来た道(333) 天野雅郎

師走(しわす→しはす→僧走!)になって、そろそろ年の瀬も近づいてきたので、あれこれ本棚の整理や、本の入れ替えをし始めたのではあるが、何分、我が家の書庫(=天野図書館)に眠っている本の数は、おそらく和歌山大学図書館の10分の1程度には達するであろうから、あちらからこちらへと、本を移動させるだけでも一苦労であり、寄る年波の所為(せい)もあって、いつも決まって、腰痛になるのが落ちである。誰か、よい補佐役(アシスタント)でも、いてくれると助かるのであるけれども、残念ながら、こればかりは突然、尾崎紅葉(おざき・こうよう)の許を泉鏡花(いずみ・きょうか)が訪ねて、即刻、入門を許可されるような幸運でも舞い込まない限りは、無理な注文であったに違いない。第一、そのような時代は遠(とお)の昔に、終わってしまっている訳であろうし。

ところで、このようにして本棚の整理を始めると、実に不思議なことに、ちょうど今、読む必要のある本で、しばらく(ずいぶん?)前に買ったまま、ほとんど(まったく?)ページを開かずにいた本が目に留まり、やれやれ、と頭を掻(か)かなくてはならないのは、面白い話である。そのような本の中から、僕は今回、君に昭和五十六年(1981年)に河出書房新社から刊行された、文芸読本シリーズの中の『泉鏡花』を紹介しておこう。と書き継ぐと、この本自体が今から、もう37年も昔に出版されたものであることに対し、あらためて驚かざるをえないが、僕自身は当時、大学院生になったばかりの時分であって、どうにかブレーズ・パスカルで卒業論文(「パスカル研究」)を書き終え、神話学や宗教学や、あるいは民俗学の勉強に身を入れ出した時期に当たっていて、なつかしい限り。

なつかしい......と言えば、この文芸読本シリーズの『泉鏡花』には、僕が大学生の折、小説家の中では最も愛読をした、福永武彦(ふくなが・たけひこ)の「懐しい鏡花」という一文も含まれており、実に久し振りに、この一文の収められている『枕頭の書』(1971年、新潮社)まで引っ張り出し、僕は福永武彦の名文を味わい直した次第。――「私は、その頃〔=高等学校の生徒だった頃〕鏡花に親しんだことを一種の幸福だったと思っている。〔中略〕作者と読者とは一つの出会いであり、機会がなければ遂に無縁だということもあり得る。私は〔、〕ちょうどいい折に鏡花に出会った。私にとって、鏡花は、遠くにある懐しいもの、永遠に少年的なもの、つまり無垢で純粋な魂の憧憬を具象化したものであり、それが私の中の(同時に多くの読者の中の)同じ性情を感動させるのである」。

 

普通の小説が多かれ少かれリアリズムの洗礼を受けて、現実と相似の関係に於て小説的現実を成り立たせているのに反して、鏡花の場合には、作者の夢見た現実の他に如何なる現実もない。それが少年の読者であった当時の私には、甚だ魅惑的に映ったに違いない。〔中略〕乏しい財布の中身を数えながら、うそ寒い古本屋の棚の前に佇んでいた私、黴〔かび〕くさい本を小脇に抱えて、寮の万年床で早く〔、〕それを読みたいものと銀杏〔いちょう〕並木を急いで歩いて行った私、そういう少年の姿が、鏡花の作中人物と重なり合って、私には懐しく思い出されるのである。

 

ところで、この本の刊行されたのが昭和五十六年(と言うよりも、1981年)であったことに、けっこう僕は興味を持っている。なぜなら、この所、このブログで君に伝えているように、どうやら泉鏡花の再評価が行なわれたのは1970年代であったこと、そして、その際に三島由紀夫(みしま・ゆきお)の果たした役割が大きかったこと、この二つの点を踏まえると、この本の冒頭に、まず三島由紀夫の「泉鏡花」(→「尾崎紅葉・泉鏡花」)が置かれているのは印象的ではあるまいか。言い換えれば、このようにして泉鏡花の再評価の起爆剤ともなった、三島由紀夫の言動と......有体(ありてい)に言えば、その死の余韻が一段落を付いて、この時期には堂々と、あの「さるにても鏡花は天才だつた」という宣言文が、この類の「文学入門シリーズ」の導入役を果たすまでに至っていたのである。

なお、その繋がりにおいて少しばかり、補足を加えておくと、この『泉鏡花』に収録されている批評や論文のページを捲(めく)っていて、意外や意外、結果的に泉鏡花を「天才」と称したのは、三島由紀夫が最初ではなく、それよりも早く、昭和四十年(1965年)に伊藤整(いとう・せい)が編集した、講談社版『日本現代文学全集』の解説文であることが分かったので、ぜひとも君の一覧に供したく、この場に引いておくことにする。――「明治以来の数多い小説家の中で、天才という言葉をあてはめることのできる作家は多くはない。近代の日本文学は、むしろ、天才という呼び方をされるような作家を拒む傾向がある。特に自然主義以後は幻想を避けて写実を主とし、文飾を嫌って平明を尊ぶ傾向の故である。その中で、天才という言葉を使うにもっともふさわしいのが泉鏡花である」。

ちなみに、このようにして伊藤整が泉鏡花を「天才」と呼んでいるのは、ちょうど井原西鶴(いはら・さいかく)と江戸時代との間に介在している関係と、泉鏡花の明治時代との関係が、ほとんど似通っているからである。すなわち、今の君や僕が江戸時代に生きていた、日本人の「生活背景」や「思考方法」や「社会通念」を知ろうと思ったら、君や僕は努力して、とにかく井原西鶴の作品を読まざるをえないが、そこには逆に、その努力に見合った「人間の生命」が浮かび上がってくる。それと同様、君や僕は「鏡花を読むために明治の習慣と語法を調べるというよりは、逆に鏡花を読みこなせなければ明治が分らなくなり、明治という時代の中に封じ込められた人間の生命が分らなくなる。やがて鏡花を読むための辞典が作られるような時があっても、鏡花が忘れられる時はないであろう」。

事実、そのような辞典は伊藤整の予言(?)の通り、これまた1980年代に入ってから、すぐに村松定孝(むらまつ・さだたか)編の『泉鏡花事典』(1982年、有精堂出版)として、日の目を見ている。でも、それが現在、品切れとなり、入手困難な点も含めて、はたして泉鏡花が「忘れられる時はないであろう」と、このように伊藤整と同様、言い切ることは出来るのか、どうなのか。僕自身は、むしろ1970年代に生じた、泉鏡花の再評価が現在、すっかり終息したのを感じているし、それは皮肉ながら、彼が1980年代になって「文豪」の仲間入りを果たし、ほとんどの「文学全集」や、僕が今回、君に紹介をしている、まさしく「文芸読本」の常連となり、そこに定着してしまうのと裏腹の現象であった。

その意味において、この『泉鏡花』という「文学入門シリーズ」の中で、僕個人が立ち止まらざるをえなかったのは、むしろ小林秀雄(こばやし・ひでお)が昭和十四年(1939年)に書いた、その名の通りの「鏡花の死〔、〕其他」という追悼文であって、ここで小林秀雄は「泉鏡花氏が逝去された。謹んで哀悼の意を表する」と筆を起こしながら、のっけから「この作家は、倦〔あ〕きずに〔、〕お化けばかりを描いて来た。近頃〔、〕お化けも流行〔はや〕らない、従つて鏡花も一向に流行らない大家として逝去された」と、ひどく扱(こ)き下ろしているので、ぎょっと(!)させられる。が、このような憎まれ口を叩きながら、小林秀雄が泉鏡花の中に見出したのは、紛いのない「芸術家」の「言葉」と、それを操(あやつ)る「比類のない手腕」でもあったのである。以下、ご一読を。

 

鏡花は、嘘から出る真〔まこと〕だけを信じた。盲信したと言つてもいいだらう。〔中略〕併〔しか〕し、畢竟〔ひっきょう〕さういふ仕事より他に、一般に芸術家といふものの悦びがあるのだらうか。どんなに明敏な分析力を持つた芸術家でも、心底に〔、〕この盲信を蔵してゐる。〔中略〕これが芸術に於〔お〕いて、その原始の性質を持続させるものであり、芸術に於ける人間的な性質も、其処〔そこ〕にあるのかも知れぬ。在るが儘〔まま〕の真では足らず、嘘から真を創り出さうといふ欲望ほど、人間の刻印の確かなものもあるまいから。これに比べると、現代小説家の言ふ人間的といふ言葉などは、案外、動物的な性質以外のものを指してゐないかも知れない。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2019 Wakayama University