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天才について(承前)――「教養」の来た道(338) 天野雅郎

天才について、ひいては泉鏡花(いずみ・きょうか)について、筆を執り始めた理由は簡単である。一昨年、このブログで僕は、君に「泉鏡花論」と題する幾つかの雑文を書き散らし、書き送っていて、そこで近年の、とは言っても、それは今から、もう半世紀ばかりも昔のことになるけれども、それこそ「泉鏡花ルネッサンス」とでも称しうるような、この作家の再評価の気運に関して、あれこれ言及した訳である。そして、そこで三島由紀夫(みしま・ゆきお)や、あるいは伊藤整(いとう・せい)が泉鏡花のことを「天才」と呼び、このような呼称が切っ掛けとなり、呼び水となって、どうやら1970年代の「泉鏡花ブーム」は生じたのではなかろうか、と論じた次第。ところが、後になって振り返ると、実は泉鏡花の「天才」評価は今から、もう一世紀近くも前に、萌していたのであった。

と言い出すと、この作家の生年は明治六年(1873年)で、その没年は昭和十四年(1939年)であったから、何と泉鏡花が「天才」と呼称されたのは彼の、存命中の出来事であったことになる。......と、まあ、このような勿体(モッタイ=物体)を付けた言い回しを用いるのも、いささか気が引けるのであるが、要は大正十四年(1925年)に春陽堂から――と書き継いでも、おそらく君はピンと来ないであろうが、例えば尾崎紅葉(おざき・こうよう)も夏目漱石(なつめ・そうせき)も、この書店を通じて多くの日本人は、その作品に接しえたのであったし、この書店の刊行していた『新小説』という雑誌を介して、国木田独歩(くにきだ・どっぽ)の『帰去来』も田山花袋(たやま・かたい)の『蒲団』も横光利一(よこみつ・りいち)の『日輪』も、それぞれ世に出ることになったのである。

ちなみに、これまで僕が君に紹介してきた、泉鏡花の『高野聖』や『天守物語』を始めとして、この『新小説』が初出である彼の作品は、とても数が多いし、また、単行本でも『照葉狂言』や『草迷宮』等は、この春陽堂が出版元である。であるから、上記のごとく大正十四年になって、はじめて彼の全集(『鏡花全集』)が全15巻で編まれる際、その宣伝のために『新小説』の臨時増刊号が刊行されたのは当然、と言えば、当然であろうし、そこには芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ)の以下の「開口」の一文と並んで、さらに里見弴(さとみ・とん)のような小説家や、笹川臨風(ささかわ・りんぷう)のような俳人や、はたまた、室生犀星(むろう・さいせい)のような詩人や、柳田國男(やなぎた・くにお)のような民俗学者が顔を連ねていたのは、これまた当然ではあったろう。

 

鏡花〔、〕泉先生は古今に独歩する文宗なり。先生が俊爽の才、美人を写して化を奪ふや。太真閣前、牡丹に芬芬の香を発し、先生が清超の思、神鬼を描いて妙に入るや、鄒湛宅外、楊柳に啾啾の声を生ずるは已に天下の伝称する所、我等〔、〕亦多言するを須ひずと雖も、其の明治大正の文芸に羅曼主義の大道を打開し、艶は巫山の雨意よりも濃に、壮は易水の風色よりも烈なる〔、〕鏡花世界を現出したるは〔、〕啻に一代の壮挙たるのみならず、又実に百世に炳焉たる東西芸苑の盛観と言ふべし。

 

一応、これで一段落(......^^;)である。本当は、いろいろフリガナを振ったり、それぞれの語の意味を逐一、説明したりしないと、君には何のことやら、さっぱり訳が分からないのかも知れないね。でも、それを仕出すと切りがないし、きっと前回のように紙幅が足りなくなってしまうに違いないから、止めておく。ただし、このような一文が今から、たかだか一世紀近く前の、文学全集の予告には使われていたのであって、しかも、それが当時、いまだ数えの34歳に過ぎなかった、芥川龍之介によって物されていたことを、やはり君や僕は相当、深刻に受け止めるべきではあるまいか。そして、それを回避するために、君や僕が彼のことを、まさしく「天才」として崇め、祭り上げ、それで事が済む訳では、さらさら無かったのではなかろうか、と僕は思うけれども、さて君は、いかがであろう。

ともあれ、このような芥川龍之介の「開口」を読み直すと、すでに泉鏡花が「天才」という名を与えられるに至る、ほとんど紙一重の段階にまで達していることは明らかであろう。事実、この『新小説』の臨時増刊号は端的に、そのまま「天才・泉鏡花」と題されていたのであって、先刻来、僕が君に伝えている、彼の「天才」評価は多分、この雑誌が嚆矢(コウシ)のようなのである。と言うことは、結果的に彼は50歳を回った頃には、何と「生きながらにして「天才」と賞賛された」のであり、また、それを「当時〔、〕活躍中の諸家が〔、〕こぞって」――詩人も俳人も、もちろん小説家も評論家も、ましてや民俗学者もが彼を「天才」と「讃えたことは特筆に値するであろう」と、このように「日本の作家100人」シリーズの1冊(眞有澄香『泉鏡花』2007年、勉誠出版)は論じている。

もちろん、泉鏡花が本当に、そのような「天才」の名に値する人であったのか、どうかは別問題であるし、そもそも「天才」という語自体が、その存在に疑いを差し挟んだら切りのない、いかにもアヤフヤな語であって、絶えず君や僕が自分自身の、眉(まゆ)に唾(つば)を付けなくてはならないことも確かであろう。論より証拠、このようにして泉鏡花の「天才」評価が繰り返される時には、いつも決まって、そこに先刻の『鏡花全集』の出版が控えていたり、あるいは1970年代であれば、そこに彼の生誕100年(昭和四十八年→1973年)を画する、さまざまな記念行事の思惑が見え隠れしたり、これらが暗躍していたことも歴然としている。その限りにおいて、このような「天才」を産み出したり、求めたりするのは「天才」の側ではなく、むしろ「天才」以外の側であったことになろう。

とは言っても、僕自身は別段、泉鏡花の「天才」評価を覆したり、これを茶化したり、したい訳では、まったく無い。それどころか、逆に僕個人は「天才」という語を、かつて三木清(みき・きよし)が『哲学ノート』(昭和十六年→1941年)の中の「天才論」で述べていたように、そこに「模倣」や、その模倣の「源泉」である「自然」という語を持ち込み、これを繋ぎ合わせ、重ね合わせたい側であり、それを欠いてしまえば、もはや「天才」は「天才」ではなく、それは笑うべき「天才猿」(=天才気取り)に過ぎないであろう。言い換えれば、もともと「天才」と「自然」とは同じ、一つの「創造的才能」でもあって、その意味において、ただ「天才のみが天才的であるのではない。あらゆる人間は何等かの程度、何等かの仕方で天才的であり、創造的であり得る」のでは、あるまいか。

 

彼の天才が〔、〕他の人々の精神の同じ性質の創造的才能を刺戟し、喚び起すという仕方で〔、〕彼は模倣されるのでなければならぬ。芸術は模倣である〔、〕という場合、模倣はまさに〔、〕かくの如き意味であるであろう。例えば美しい風景や人物は芸術家の創造的才能を刺戟し、喚び起し、生産的活動に駆り立てる。その際〔、〕彼は単に自然を精密に、小心翼々と模倣しようするのではなく、却って自然と同じ源泉から汲み、且つ自然の如く創造しようするのである。自然そのものが天才的である〔、〕ともいい得るであろう。〔中略〕天才が自然の如く働くように、自然は天才の如く働く。単に〔、〕いわゆる天才のみが天才的であるのではない。あらゆる人間は何等かの程度、何等かの仕方で天才的であり、創造的であり得る。

 

この点で、三木清が哲学の始祖である、あのソクラテスを引き合いに出し、彼の「ダイモニオン〔daimonion=守護霊〕の思想は後の天才の概念の端緒と見られるのであるが、そのソクラテスの天才は〔、〕まさに〔、〕かくの如きものであった」と書き継いでいるのは興味深いし、さらに「天才は天才を喚び起す〔、〕という場合、各々の人間は一つの創造的世界のうちにある創造的要素と考えられねばならぬであろう」から、その点で、このような「世界はライプニッツのモナドロジー〔monadologie=単子論〕の如きものと考えられねばならぬであろう」と言い添えているのも興味深い。要するに、人は人に、決して哲学を教えることは出来ないが、それにも拘らず、人は人の、哲学に対する「天才」を呼び覚ますことは叶うのである。そして、それがカントの、そのまま哲学講義でもあった。

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