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德冨蘆花覚書(承前)――「教養」の来た道(340) 天野雅郎

德冨蘆花(とくとみ・ろか)のことを、一見、唐突に喋り始めたのには訳がある。もちろん、その訳(わけ=理由)の一つは、前回も触れたように「かつては国民的作家として一世を風靡し」――それにも拘らず、むしろ「こんにちでは〔、〕その作品を文庫等で入手することすら難しくなりつつ」ある、この作家(ライター)について、ぜひとも君に話を聴いて貰(もら)いたい、と考えたのが当座の理由である。なぜなら、このようにして熊本県立大学編『至宝の徳冨蘆花』(2009年、熊本日日新聞)が論じているごとく、その「作品は、けっして過去のものとして葬り去られるべきものではなく、二十一世紀の現代においても光彩を発揮し続けるもの」であることを、ごく単純に、僕自身が昨年末、彼の『思出(おもひで)の記』を読み返していて、はっきり感じ取ったからに他ならない。

 

郷土熊本は水俣〔みなまた〕出身の明治時代の文豪に德冨蘆花がいる。水俣市の名誉市民であり、熊本のみならず日本を代表する文学者のひとりと言ってよい。憧れのトルストイを訪ねた『順礼紀行』の旅は有名であり、悲劇の純愛を描いた『不如帰(ほとゝぎす)』、日本人の感情教育に役立ったとされる『自然と人生』、自然との共生を謳い人気のあった『みゝずのたはこと』など、名作は数多い。蘆花の作品は、かつて教科書にも採用されており、その高い評価のほどが知られる。〔改行〕しかし、現在では、それらの作品に親しむ人の数は〔、〕それほど多くない。〔中略〕かつての蘆花の人気は何処に行ったのだろうか。そして、このことは、果たして蘆花が時代を越えられる作家ではなかった〔、〕ということなのか。いったい現代人は、蘆花を〔、〕どのように評価したらよいのだろうか。

 

ちなみに、このようにして德冨蘆花の故郷は現在の、熊本県水俣市である。と言い出したら、そこには当然、この場所に生まれた有名人(セレブリティー)として、彼の兄の蘇峰(そほう)こと德冨猪一郎(とくとみ・いいちろう)や、その姉の、後の湯浅初子(ゆあさ・はつこ)の名を付け加えざるをえないけれども、僕個人は以前、このブログでも君に紹介したことのある、民俗学者の谷川健一(たにがわ・けんいち)と、その弟で詩人の谷川雁(たにがわ・がん)のことが、やはり想い起こされる。と書き継いで、ふと机の横の本棚を眺めると、そこには『魔の系譜』(1971年、紀伊國屋書店)を始めとする谷川健一の本と並んで、たまたま『谷川雁詩集』(1968年、思潮社)が置かれていたので、そのページを捲(めく)り、目に留まった「故郷」から「田舎者」である君に、詩を一つ。

 

おれたちの故郷の どぶ河の

水底に もだえる赤い蛭よ

おしだまっている 小さな巻貝よ

戦争で死にそこねた 息子達のダンスよ

おれたちは みな田舎者である

 

ところで、その、九州の熊本を離れて、主人公(菊池慎太郎)が四国の宇和島から、さらに神戸(=関西学院)を経て、東京(=帝國大學)へと向かい、いわゆる「立身出世」(サクセス・イン・ライフ)を遂げ、めでたく故郷に錦(にしき)を飾る物語が、実は先刻、名前を挙げた『思出の記』なのである。が、その粗筋(あらすじ)を逐一、君に喋り出したら切りが無いし、その波乱万丈のストーリーは君自身が、みずから辿り直し、ハラハラしたり、ドキドキしたりしたら、よろしいであろう。ただし、この本は昔、岩波文庫版の上下2冊で、容易に入手できたのであるけれども、残念ながら、今は絶版の様子。したがって、僕自身も致し方なく、重たい上に、上下2段組の、筑摩書房の「現代日本文學体系」(9)の「德冨蘆花・木下尚江集」で、この『思出の記』を読了した訳である。

でも、せっかく君に、この本を紹介しておきながら、後は勝手に読んでね(......^^;)と突き放したのでは、やはり余りにサーヴィス(service→servus=奴隷)精神に欠けるであろうから、次に手許の『日本近代文学大事典』(1977年、講談社)を引き、その記述を借りておこう。――「熊本の旧家に生れた菊池慎太郎が苦学しながら時代の新しい雰囲気を経験して明るく成長していき、やがて親友の妹と結婚して文学者になっていくという物語で、表面的には立身出世小説もしくは教養小説にみえ、また後年〔、〕作者によっても否定的にみられたものであるが、その本質からいえば優に代表作ということができる。ここには明治前半期に可能的に存在した近代的自我の形成過程が時代の相とともに描き出されており、明治の時代精神と〔、〕そこに生きた明治的人間の一つの典型が見いだされる」。

さて、いかがであろう。文学事典の記述にしては、いささか難しいかな。まあ、それが「大事典」(!)と、わざわざ銘を打っている理由でもあろうし、また、それが1970年代と現在との間に差し挟まっている、半世紀に近い時の流れでもあろうが、ともあれ、このような「立身出世小説」が「明治前半期」には、まさしく「明治の時代精神」を奮い立たせ、はなはだ多くの「明治的人間」の心を摑んだ「教養小説」(Bildungsroman=人格形成物語)であった次第。そして、そのことが後年、上記の説明にもあったように、この「代表作」を作者自身が「否定的」に評価するに至る原因でもあれば、それは「明治前半期」に「可能的」(≠現実的)に、あくまで「可能的」に夢見ることの出来た、要は、社会と個人との理想的な調和の上に、朧(おぼろ)に成り立つ「教養」でもあった訳である。

であるから、この後に『日本近代文学大事典』は続けて、さらに以下の記述を添えているのであって、この点が抜け落ちていれば......おそらく僕は君に、この「教養小説」を紹介したり、推薦したり、する気は起きなかったであろう。なにしろ、この『思出の記』は上面(うわっつら)だけを眺めていると、ただ呑気(のんき→暖気)な、一人の青年の成長物語や、無邪気な成功譚(=就職譚+結婚譚)と、その懐旧譚であるかのごとく、受け止められかねないであろうから。――「主人公は日本文学において数少ない市民として造形されており、そのことは結末部に示される理想的な社会のイメージが主人公の〔、〕それまでの生き方と明瞭に対応して描き出されていることによっても証明される。その意味で、これは明治維新が本来めざした理想の残像を提示した小説ということができよう」。

残像という言い回しは、なかなか的確であるし、この語が元来、英語の afterimage の翻訳語として、物理学において成り立ち、それを例えば『日本国語大辞典』(2006年、小学館)が「刺激を与えて感覚が生じた後、その刺激を除去しても感覚が残っていること。原刺激と同質、または異質な感覚経験が起こることがある。主に視覚についていう。残感覚。ざんしょう」と説き明かしているのも興味深い。言い換えれば、そのような「原刺激」が私たちの国で、いわゆる「明治維新」という形で齎(もたら)され、それが「理想的な社会」と、そこに暮らす「市民」(=理想的な個人)という像を産み出し、それにも拘らず、それが20年後には、まったくの幻像であることを露呈した時、その「残感覚」を「思出」(おもひで)として、あえて記したのが徳冨蘆花であったことになるであろうか。

このようにして顧みると、思いの外、彼の『思出の記』というタイトルには、意味深長な思いが籠められていたことにもなるであろう。その意味において、つとに平岡敏夫(ひらおか・としお)が『明治文学史の周辺』(1976年、有精堂)の中で、おそらく先刻来の『日本近代文学大事典』の記述に先立ち、このような德冨蘆花の物語世界を「日清戦後の浪漫主義」と呼び、その「戦後」文学としての特徴を浮かび上がらせていたのは流石(さすが)である。すなわち、この『思出の記』にしても、その前後の『不如帰』にしても、あるいは『自然と人生』にしても、これらの作品群には彼の、東京を離れた逗子(ずし)での生活が背景となっているし、それは端的に、彼が「この戦争を過ぎることで、何かを失い、何かを得た」......その「熱い心情」の吐露でも、ありえたに違いないのである。

 

日清戦争後の現実にあって、ついに〔、〕まぼろしとなってしまった〔、〕この愛の記憶〔=『思出の記』の「恋愛」の記憶〕――ここに蘆花の、かえらぬ青春の記憶といったもの以上の、ある暗い浪漫的心情を見いだすことができるのである。〔中略〕日清戦後の浪漫主義には、ありえたと信じる「恋愛」を切望しつつ、しかも〔、〕もはや引き返す〔、〕すべもなく、あえて快活をよそおい、あるいは即物的な官能・性愛の次元に居なおろうとする心情が〔、〕無意識にもせよ、深く〔、〕ひそんでいるように思われる。「恋愛」の記憶を捨て去れば、悲惨小説・観念小説・社会小説が〔、〕たちどころに姿をあらわしてくるような、日清戦後社会の基底においてのことである。

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