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嗜(たしなみ)について(承前)――「教養」の来た道(346) 天野雅郎

嗜(たしなみ)について、という一文を君に送り届けてから、ようやく後になって、気が付いたのであるが、そう言えば......しばらく前に僕は白洲正子(しらす・まさこ)の、まったく同じ名の本(『たしなみについて』2017年、河出文庫)を買い、読まないままで放り出していたのであり、今回は改めて、そのページを開き、もう一度、嗜について、筆を執り直すことにした次第。なお、この本は平成二十五年(2013年)に、もともと同出版社(=河出書房新社)から単行本で出版されたものであったけれども、さらに遡ると、昭和二十三年(1948年)発行の雄鷄社版にまで辿り着く。と言うことは、もう今から70年余りも昔に、この本は著者が38歳の折に、世に出たものであったことになる。ちなみに、この時点から数えて、ちょうど白洲正子の没年(平成十年→1998年)までは50年である。

ところで、そもそも嗜という語の語源(etymology=真理)について、とりわけ、その日本語(≠中国語)としての成り立ちや由来に関して、うっかり僕個人は誤解をしていた点があるから、この点を君に、まず報告を済ませておくことにしたい。と言ったのは、ついつい僕自身は嗜(たしなみ)の語頭の「た」の音が、てっきり「楽(たの)し」(→楽しい)の「た」と同じ意味で用いられており、要するに、君や僕が「手」(た→て)を伸(のば=延)すことに通じるイメージを、この嗜という語の語感(nuance=陰影)に嗅ぎ取っていたからである。事実、何かを嗜むことは僕にとって、何かを「楽しむ」(→楽しぶ)ことに他ならず、そこには「楽しみ」(→楽しび)が伴われていて当然であったし、それを欠いていては、お話にならないことは、火を見るよりも明らかであったからである。

が、このように捉えてしまうと、結果的に嗜の楽しい面は、よく理解できても、そこから嗜の苦しい面や辛い面が、抜け落ちてしまう虞(おそれ)が大きい。と、このように考えながら、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を調べると、そこには「たしなむ」(嗜)の前に、ちゃんと「たしなむ」(窘・困)という形で、この嗜の苦しい面や辛い面を指し示す語が置かれていて、なるほど、と僕は先刻、膝を打った所である。念のために引いておく。――「苦しむ。苦しい目にあう。困窮する。苦労する。たしなぶ」。また、この「たしなむ」が他動詞化をして、さらに「たしなめる」となる点も、お察しの通りであろうが、こちらは現在、君や僕が「(主に、目上の人が目下の人に対して)それは〔、〕いけないことだと穏やかに注意を与える」という形で使っているものである。

さて、いかがであろう。このようにして振り返ると、こちらの「たしなむ」(窘・困)の苦しい面や辛い面が、どのようにして「たしなむ」(嗜)の楽しい面へと姿を変えていったのかが、問われざるをえない。もっとも、例えば白川静(しらかわ・しずか)の『字訓』(1987年、平凡社)を調べると、どうやら「嗜む」は「古くは「たしむ」「たしふ」といい、もと意味の異なる別の語で」あって、何かを味わったり、何かに耽(ふけ)ったりする際に、使われた語であったらしいが、これに対して「平安期以後には「たしなむ」を〔、〕その意に用いる」のが順序であった模様。したがって、この記述を踏まえれば、たまたま「たしなむ」という語の苦しい面や辛い面に、後から「たしなむ」の楽しい面が上乗せされたことにも、なりかねないけれども、何だか僕は釈然としない気分である。

ともあれ、このようにして「平安期以後」になると、君や僕の知っている嗜の語が、ようやく歴史上、登場するに至る訳である。そして、そこに『日本国語大辞典』の挙げている用例が、例えば『風姿花伝』であったり『太平記』であったり、することを想い起こすと、おそらく歴史上、この嗜の語を育(そだ)て、育(はぐく)んだ土壌も相応に、浮かび上がってくるであろう。と、このようなことを感じ取りながら、僕は今回、白洲正子の『たしなみについて』を読み終えたのであるが、いちばん興味深かったのは、この著者が40歳にも満たない折に、この嗜の語を宛がい、このようなタイトルの随筆を物していたことであり、それは直接的には、この本の中に散見される「貴族」という語や、その反対の「農民」という語とも相俟(ま)って、かなり僕を複雑な思いにさせたのでもあった。

この点について、これ以上のことを述べる心算(つもり)はない。その代わりに、と言っては語弊があるが、この本に収められている「お祈り」という一文に、たまたま小林秀雄(こばやし・ひでお)の「オリムピア」が取り上げられていたので、これを早速、君にも紹介しようと......机の横の本棚を探してみると、ありました、ありました、運好く角川文庫版の『常識について』の中に、この「オリムピア」は含まれていて、そこには昭和十五年(1940年)の日付が書き添えられている。と言うことは、当時、小林秀雄は白洲正子が『たしなみについて』を出版した時と同じ、38歳に当たり、その際の「オリムピア」が4年前(昭和十一年→1936年)にドイツのベルリンで催された、夏季オリンピック大会を記録した、あのレニ・リーフェンシュタールの映画であることも、はっきりしてくる。

と、ここまで話が来れば、すでに君も気が付いているであろうが、この年(昭和十五年→1940年)は実は、第12回の夏季オリンピックも、第5回の冬季オリンピックも、いずれも日本の、東京と札幌で開かれることが決まっていた年である。もちろん、歴史上初。ところが、君も知っての通り、この両大会は日中戦争の激化と、この翌年には火蓋を切ることになる、太平洋戦争の不穏な情勢に伴い、みずから開催権を日本が返上するに及んだ、いわゆる「幻のオリンピック」であり、前々回、僕が君に「レジャーの、たしなみ」と題して伝えておいたように、これが実現するのは戦後になって、夏季オリンピックの方は昭和三十九年(1964年)に、冬季オリンピックの方は昭和四十七年(1972年)に、ふたたび東京と札幌で両オリンピックが開かれる時まで、待たなくてはならなかった訳である。

と言うことは、そのような戦時下の、緊迫した状況の中で、この「オリムピア」(邦題→第一部『民族の祭典』+第二部『美の祭典』)という映画を小林秀雄は観て、その後、同名の一文を雑誌(『文藝春秋』)に掲載したことになる。言わずもがな、では――あるけれども、このような時代の映画館に足を運び、映画に目を凝らした経験は、君にも僕にも、皆無である。その上で、あえて白洲正子は小林秀雄の、この「短い、しかし非常に美しい感想の一節」を持ち出すのであろうが、それは僕にとっては、いささか共感の範囲(範疇?)を超えたもので、あらざるをえない。が、それにも拘らず、と評するべきなのか、それとも......そうであるからこそ、と評するべきなのか、やはり「美しい感想の一節」であることは疑いのない、紛れようのない事実なのである。以下、ぜひとも君の一覧に。

 

「オリムピア」という映画を見て非常に気持ちがよかった。近頃、稀有なことである。〔中略〕長い助走路を走って来た槍投げの選手が、槍を投げた瞬間だ。カメラは、この瞬間を長く延ばしてくれる。槍の行方を見守った美しい人間の肉体が、画面いっぱいに現われる。右手は飛んで行く槍の方向に延び、左手は後ろへ、惰性の力は、地に食い込んだ右足と爪先で受け止められ、身体は今にも白線を踏み切ろうとして、踏み切らず、爪先を支点として前後に静かに揺れている。緊張の極と見える一瞬も、仔細に映し出せば、優しい静かな舞踏である。魂になった肉体、おそらく舞踏の原型が〔、〕そこにあるのだ。

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