ホームメッセージ詩人の幸福(第七回)――「教養」の来た道(347) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

詩人の幸福(第七回)――「教養」の来た道(347) 天野雅郎

以前、このブログで「詩人の幸福」という雑文を物していた時期があり......と書き出すと、おそらく君は雑文という語のイメージを、例えば『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の語釈のように「これといった、まとまった内容のない文章。専門的でない、軽く書き流した文章。また、これらの文章を〔、〕さげすんでいったり、自分の文章を卑下していったりする」行為であるかのごとく誤解をしていると困るので、あえて付け加えておくが、なるほど雑文は「これといった、まとまった内容のない文章」である。であるから、そのような文章を性懲(しょうこ)りもなく、立て続けに書いている僕の行為は、当然、雑文書きの名に値(あたい=価)するであろうし、そのこと自体、まったく言い逃れようのないことであるし、それを言い抜けようとする気も、まったく僕にはないのである。

ただし、そのような文章が「専門的でない、軽く書き流した文章」と、いつも重なり合っているのか、どうかは別問題であろう。事実、僕のように哲学(フィロソフィー)という名の、そもそも「専門的でない」学問の勉強をしている人間には原則的に、また必然的に、すべての文章が雑文として位置づけられても、致し方のない面があることも確かである。とは言っても、そのような哲学本来の態度や姿勢が有耶無耶(ウヤムヤ)になり、曖昧になり、いっこうに哲学と科学(サイエンス)との境目すら、はっきりしなくなった時代――すなわち、20世紀になって「雑文」という語は生まれたらしいから、このような物言い自体が世間で罷(まか)り通る保証は、とりわけ「哲学プロパー」(proper→哲学専攻学者!)を自称し、自認する人々の間では、望み薄なのが正直な所であるけれども。

と言ったのは、上記の『日本国語大辞典』が「雑文」の用例に、あの川崎長太郎(かわさき・ちょうたろう)の『兄の立場』(1926年)を挙げていることからの類推に過ぎないが、この類推が間違っていないとすれば、ひょっとすると他人の文章を「雑文」という形で「さげすんでいったり、自分の文章を卑下していったりする」のも、この国では昭和以降(1926年→昭和元年)に顕著になった、専門主義や専攻主義の弊害であったのかも知れないね。でも、まだ君が川崎長太郎の名を知っていたり、この「私小説家」が1970年代になって、つげ義春(よしはる)の漫画あたりを通じて、にわかに注目されたり、その余波が今でも続いている(→講談社文芸文庫)のを、うすうす感じていたりするのであれば、君は専門主義や専攻主義の毒に侵(おか)され切っているのではないから、ご安心を。

言い換えれば、もともと雑文を「ザツブン」と読むのは、あくまで日本人の慣用音であり、これを仮に漢字本来の、中国音で読むとすれば、呉音(=中国南方音)では「ゾウモン」となるし、漢音(=中国北方音)では「ソウブン」となる。と書き継いだら、きっと君も想い起こしてくれるに違いないが、かつて『万葉集』において公的な、正式な歌は雑歌(ゾウカ)と称されていた訳であるし、例えば雑作(ゾウサ)や雑炊(ゾウスイ)や雑煮(ゾウニ)は、そこに色々な、種々(くさぐさ)のものが集まり、一箇所に留まり、見事な調和(ハーモニー)を奏でていることを指し示しているのであって、それは君や僕が現在、雑音や雑菌や、雑種や雑草や、雑念や雑用や、あるいは混雑や粗雑や、煩雑や乱雑という語で否定的に捉えているものとは、根本的に違う状態を意味していたのである。

そのような状態を褒め称えて、おそらく雑賀(さいか→さいが)という語は成り立っていたはずであるし、そのような雑賀こそが和歌山の旧名であったことを踏まえれば、まず和歌山とは種々(くさぐさ)の、賀(訓読→よろこび)の産み出される場所であったことになるであろう。この点は、雑学であっても雑談であっても、まさしく雑文であっても、いっこうに変わらない。裏を返せば、このようにして多くのものが混じり合い、溶け合っている状態を、君や僕が不純な、濁ったものと理解し、判断する所から、文字どおりに布を集めて、パッチワークのようにして縫い上げられた衣服(すなわち、雑)への軽蔑や嫌悪は萌(きざ=兆)していることにもなるであろう。そして、そのような気差(きざ)しが君や僕の周囲に、はっきり姿を見せたのが先刻来、述べている20世紀であった次第。

さて、このような事態を振り返りながら、僕が今回、昨年の5月以来、久し振りに「詩人の幸福」の筆を執り直している理由は他でもない。実は前回、僕が白洲正子(しらす・まさこ)の『たしなみについて』の繋がりで君に紹介しておいた、例の小林秀雄(こばやし・ひでお)の「オリムピア」は、それがオリンピックの競技種目である、槍投げや砲丸投げに登場する、いわゆるスポーツ選手の話である以前に、それ以上に、むしろ「言葉の選手」である「詩人」の話なのであって、そのことは彼の、次の言い回しからも明らかである。――「彼〔=詩人〕は言葉の選手となる。左手を挙げ、右手に摑〔つか〕んだ言葉を、首根っこに擦〔す〕りつける」。あたかも「砲丸投げの選手が、左手を挙げ、右手に握った冷たい黒い鉄の丸(たま)を、しきりに首根っこに擦りつけている」かのように。

 

それに連れて、差し挙げた左手は、空気の抵抗でも確かめるように、上下する、肌着の下で腹筋が捩(よじ)れる、スパイクで支えられた下肢の腱が緊張する。彼は知らないのだ、これらの〔、〕ことごとくの筋肉が、解放をめざして協力している事は知っているが、それが〔、〕どういう方法で行なわれるかは全く知らないのだ。鉄の丸の語る言葉を聞こうとするような眼つきをしている。おそらく〔、〕もう何にも考えてはいまい。ふだんは頭のなかにあったと〔、〕おぼしい彼の精神は、鉄の丸から吸いとられて、彼の全肉体を、血液のように流れ始めている。彼は〔、〕ただ待っている、心が本当に虚(むな)しくなる瞬間を、精神が全く肉体と化する瞬間を。

 

この後を読むのは、もっぱら君の仕事である。が、いささか紙幅も残されているから、書き添えておくと、要するに小林秀雄にとって「詩人」(poet)とは、いわゆる「肺腑〔はいふ〕の言」を吐(は)くことの叶う存在であって、例えば「恋愛」という観念(idea)と、その連想(association=結合)において決まり切った、分かり切った言葉を紡ぐのが「詩人」なのではない。それならば、僕が君に一本(ひともと)の薔薇(ショウビ→ソウビ→バラ)を、それとも百万本の薔薇を贈る......と書いただけで、僕は一端(いっぱし)の「詩人」となりうるであろうし、これを「月が綺麗ですね」と囁(ささや)き換えても、ほとんど事態は同一であろう。でも、それは残念ながら、詩(poem)ではなく、好くも悪くも、通俗的(popular)な歌謡曲(popular song)の域を出るものではないのである。

その意味において、ふと気が付くと、君や僕の周囲には何と多くの、詩ではない詩が溢れ、その背後には、何と多くの詩人擬(もど)きの詩人が充ち満ちているのであろう。とは言っても、それは下手をすると、たちまち歌人擬きの歌人となったり俳人擬きの俳人となったり、小説家擬きの小説家となったり随筆家擬きの随筆家となったり、おそろしい事態を呼び起こし兼ねないから、やめておく。まあ、これが雁(がん)ならぬ雁擬きの類であれば、まだ煮込田楽(=お田)の具材ともなりうるであろうが、さて文学や哲学に文学擬きや哲学擬きは似つかわしいのやら、どうなのやら。――「詩人は、ありのままの言葉を提(さ)げて立っている。彼は、言葉に関して、けっして器用な人間ではない。みんな〔、〕そう思っているが、詩人に関する最大の誤解である。彼は実は、原始人なのだ」。

 

言葉の故郷は肉体だ。僕らの叫びや涙や笑いが、僕らの最初の言葉である事を疑う者は〔、〕あるまい。だが、言葉は拡散する。厄介〔やっかい〕な肉体の衣を脱いで、軽々と拡散する。もう再び肉体を得ないのだとしたら、一体どこまで飛び去れば〔、〕いいのだろうか。詩人とは、その事に気づいた人間だ。彼は言葉を厄介なままに取り上げる。彼は、人々の間で、偶然に吐かれては忘れられてゆく肺腑の言の意味するところに通達しようと努める。ある秩序の下に、どのような条件を整えて、祈念すれば、人は肺腑の言をなすか、彼は〔、〕それを案出する。彼は言葉の選手となる。左手を挙げ、右手に摑んだ言葉を、首根っこに擦りつける。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2019 Wakayama University