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現象学について(承前)――「教養」の来た道(359) 天野雅郎

現象学について、もし君が興味を持っていて、なにか入門書とか概説書とか、てっとりばやく読める本を探しているのであれば、まあ、僕のような老頭児(ロートル→中国語)には自分自身の学生時代に定番であった、木田元(きだ・げん)の『現象学』(1970年、岩波新書)でも読んでみたら、と言うしかないのであるが、これが1980年代以降、例えば竹田青嗣(たけだ・せいじ)の『現象学入門』(1989年、NHKブックス)あたりに代替わりをする頃になると、もう僕個人はソコソコの歳になっていたし、いささか時代の傾向や特徴や、要は「雰囲気」に馴染(なじ)めない面もあって、これ以降の入門書や概説書は、こと現象学に関する限り、ほとんど目を通していないのが実情である。であるから、結果的に君も君自身の、時代の「雰囲気」からスタートすれば、それで構わないであろう。

でも、おそらく何を手に取り、それを入門書や概説書に据えてみても、そこから短期間の内に、たちまち君は世に言う、現象学者たちの本に触手を伸ばすことになるであろうから、詰まる所、入門書や概説書は文字どおりに、ガイドブックやハンドブックの役目を果たすに過ぎない訳である。その意味において、きっと君にとって重要なのは、その際の現象学者たちの中から、いったい誰を選んで、君が現象学の勉強を始めるのか、という点であったに違いない。ところが、ここから先が実は、難問中の難問であって、君が仮に哲学的センスに溢れ、おまけに頭脳明晰でもない限り、いわゆる現象学者たちの本は簡単には読み熟(こな)せず、それどころか、まったく珍糞漢糞(チンプンカンプン)であることが多く、言ってみれば、君と現象学との出会いを不幸なものにする可能性が大である。

事実、僕のように哲学的センスに溢れ......と我ながら、このことだけは疑いを持った例(ためし=様)がなく、それにも拘らず、それほど頭脳明晰ではない側から見ると、とにかく現象学者のテキストには難物が多く、ほとほと困り果ててしまったのが正直な話。例えば――と、また昔、昔の昔話で恐縮であるが、僕が大学生の時分、実は最初にページを捲(めく)ったのは、あのエドムント・フッサール(Edmund Husserl,1859-1938)の『現象学の理念』(Die Idee der Phänomenologie)や『純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想』(Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie)であって、それは前々回の、さらに前回(第356回:現象について)において話を聴いて貰(もら)った、ヘーゲルの『精神現象学』よりも、むしろ早い時期の遭遇であった。

もちろん、それは当時、文学部の哲学科の学生でもなかった僕に、そのような授業の場が提供されていたことを指し示しているのではなく、いまだ幸運なことに、その頃までの大学には学部や学科の閾(しきい=敷居)を越えて、いろいろな学部や学科の教員と大学院生と学部生と、卒業生までもが学内外から集う、さまざまな勉強会が催されており、その中の一つが、まさしく現象学の勉強会であった訳である。が、残念ながら、その頃の僕はドイツ語のドの字も知らない、完全な門外漢であったから、いくらドイツ語の辞書を片端(かたはし→かたっぱし)から引き捲(まく)り、すべての単語に日本語を貼り付けてみても、それで現象学の「理念」(イデー)や「構想」(イデーン)が理解できるはずはなく、こりゃ駄目だ(!)と這々(ほうほう)の体(てい)で現象学を放り出した次第。

今にして振り返れば、このような企て自体が無茶な、無謀な取り組みであったことは、火を見るよりも明らかであるし、おまけに『現象学の理念』は『内的時間意識の現象学』(Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewußtseins)と並んで、いずれも立松弘孝(たてまつ・ひろたか)訳で、みすず書房から出版されていたが、それは貧乏学生にとっては高価な代物であった。なお、もう一方の『純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想』に至っては、戦前(昭和十六年→1941年)の池上謙三(いけがみ・けんぞう)訳(抄訳)が岩波文庫から『純粋現象学及現象学的哲学考案』という名の、いかにも物々しい姿で刊行されており、これを図書館で、どうにか閲覧できるに過ぎず、それをコピーに取ることさえ容易ではない時代であるから、その苦労たるや、尋常な状態ではなかった訳である。

ちなみに、この時期は『論理学研究』(Logische Untersuchungen)が立松弘孝と、その共訳者(松井良和・赤松宏)によって、みすず書房から刊行中であったけれども、それ以外は、せいぜい岩波書店の『厳密な学としての哲学』(佐竹哲雄訳)か、あるいは中央公論社の「世界の名著」シリーズの『ブレンターノ・フッサール』(細谷恒夫編)くらいしか......大学生の手に入る本は、なかったのが実情であり、その点で悔やまれるのは、ちょうど僕が大学生であった折、細谷恒夫(ほそや・つねお)と木田元の共訳で『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(Die Krisis der europäischen Wissenschaften und die transzendentale Phänomenologie)が、さらに長谷川宏(はせがわ・ひろし)訳で『経験と判断』(Erfahrung und Urteil)が、それぞれ上梓されるに至っていたことである。

と言ったのは、それにも拘らず、これらの本を僕は、その値段に恐れを成して買うことを躊躇し、ようやく年を取ってから、はじめて繙いたのであって、ああ、もっと若い時に『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を読んでいたらな、と反省すること頻りである。その繋がりにおいて、似たような思いはハイデッガーの『カッセル講演』にも、あてはまる。ただし、こちらは20世紀の末年になって、やっと発見され、公表されたものであるから、これに目を通していれば、少しは僕のハイデッガーと、その『存在と時間』の理解も違っていたであろうに、という空想は、あくまで空想でしかない。が、その『カッセル講演』を何と、君は現在、とても分かりやすい翻訳(後藤嘉也訳)で、しかも、文庫本サイズの平凡社ライブラリーで手に取ることが叶うのであるから、うらやましい限り。

さて、そろそろ紙幅も尽きてきたので、お開きにするが、このようにして辿り直すと僕自身は、ほとんど現象学の勉強をしてきた側でもなく、ましてや現象学について、君に本を推薦するに適している訳でも、さらさら無いけれども、しいて一冊(と言うよりも、一人)君に現象学者を紹介するとすれば、それはオランダの精神病理学者で、これまた僕が大学生であった時分、それなりに盛名のあった、ヴァン・デン・ベルク(Jan Hendrik van den Berg, 1914-2012)である。と書き継ぎながら、僕の膝の上には彼の、副題には「〈見ること〉をめぐる断章」と添えられた、文字どおりの『現象学への招待』(1982年、川島書店)と、もう一方は「現象学的精神病理学入門」と副題を添えられた、その名も『人間ひとりひとり』(1976年、現代社)が乗せられているので、この続きは、また次回に。

 

一九三八年にフランスの作家ポール・ヴァレリーは、有名なフランス印象派の一人であるドガについての研究を刊行した。この小さな書物には、ドガのデッサンのコピーが収められていたが、ヴァレリーの目的は、主としてバレリーナを扱った〔、〕こうしたデッサンを解明することであった。〔中略〕ヴァレリーのコメント〔中略〕は、現象学とは何かについての〔、〕きわめて明快な範例になっているように思われる。〔中略〕読者の皆さん。あなた方が〔ヴァレリーのコメントのように〕正直に、透明で羽毛のような身体としての踊り子を見ようと努力する時、また、彼女が踊っている間中まわりの舞台や側景を見ようと正直に努力する時、あなた方は現象学に、新鮮で重要な一歩を既に〔、〕ふみ入れているのである......(「現象学への招待」)

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