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三島由紀夫論(第二回)――「教養」の来た道(361) 天野雅郎

三島由紀夫(みしま・ゆきお)の『豊饒(ほうじょう)の海』について、今回は君に話を聴いて貰(もら)いたい。この小説自体は前回も触れたように、第一巻の『春の雪』から始まり、その後に『奔馬(ほんば)』『暁(あかつき)の寺』『天人五衰(てんにん・ごすい)』と続く、四部作であるが、君も知っての通り、この四部作の最終稿には「昭和四十五年〔1970年〕十一月二十五日」の日付があって、それは三島由紀夫その人の命日にも当たっている。すなわち、この小説を書き上げ、この日付を書き込んだ後で、この作家は意図的に、その当日に陸上自衛隊、市ケ谷駐屯地の東部方面総監室を占拠し、その部屋で、あの「三島事件」を惹き起こすことになる。享年45歳。その意味において、この作品は文字どおりに、この作家の遺作(posthumous work=死後作品)ともなった訳である。

一応、細かい出版の経緯を述べておくと、この四部作が雑誌(『新潮』)に連載されるのは、まず『春の雪』が昭和四十年(1965年)9月号から昭和四十二年(1967年)1月号まで、続いて、同年2月号から翌年(昭和四十三年→1968年)8月号までが『奔馬』である。そして、その後に『暁の寺』が同年9月号から翌年(昭和四十五年)4月号まで、さらに『天人五衰』が同年7月号からスタートをするけれども、要するに、ここに至って『豊饒の海』の四部作には、はじめて中断の期間が差し挟まれることになり、これが最終的に完結するのは翌年(昭和四十六年→1971年)1月号になる。ちなみに、それぞれの単行本の出版年は次の通り。――『春の雪』(昭和四十四年、1月5日)『奔馬』(同年、2月25日)『暁の寺』(昭和四十五年、7月10日)『天人五衰』(昭和四十六年、2月25日)

しつこい言い回しには......なるけれども、僕自身は当時、まだ「ひよっこ」(🐣)の中学生であったから、この頃の社会情勢や、まして世界情勢に関しては、とんと目配りが利(き)かず、幸い高度経済成長期の日本の、到達点でもあれば瓦解点でもある、あの「大阪万博」(正式名称→Japan World Exposition, Osaka 1970→「日本万国博覧会」)に対しては、生来の「ひねくれ」根性も手伝って、ほとんど無関心でいられた次第。ただし、その反面、残念ながら自分の周囲で起きていた、いわゆる「公害問題」や、史上初の「ハイジャック事件」(→「よど号」乗っ取り事件)に対しても、まったく理解が行き届かず、もっぱら僕自身は漫画の『あしたのジョー』に興じるような、その名の通りの「三無主義」や「四無主義」(=無気力+無関心+無責任+無感動)を、地で行く中学生でもあった。

と言い出すと、かなり自分でも不可解であるが、そのような僕が三島由紀夫の死(=割腹自殺)に関して、なぜ興味を催し、すぐさま本屋に向かい、それ以前は、おそらく『潮騒(しおさい)』くらいしか目を通していなかったであろう、子供じみた中学生が、にわかに色気づいた高校生となりえたのは、なぜなのであろう。その辺に、どうやら三島由紀夫という作家と僕個人の接点は隠されているらしい。なお、このようにして当時の、時代背景を辿る中で、ひょっとすると忘れてはならないのは、この前年、アメリカの宇宙船(アポロ11号)が人類史上、初の月面着陸を果たした(!)というニュースであったのかも知れないね。なにしろ、そのことを予期していたのか、いなかったのか、みずからの作品に『豊饒の海』という題を三島由紀夫が宛がったのは、その「月の海」の訳語であるから。

ところで、このようにして月面には、いくつもの「月の海」(lunar mare)が存在しているけれども、わかりやすく言えば、われわれ(すなわち、地球人)の目からは暗く、黒く見えているのが「月の海」であり、そこが実際に、海(うみ=居水)である訳ではない。また、その中の一つが現在、一般に「豊かの海」(Mare Foecunditatis)と称されている場所(すなわち、盆地)であるが、さすがに三島由紀夫は落ち着きの悪い、この訳語を使わず、雅(みやび)やかな「豊饒の海」を用いている。が、そのような「豊饒の海」が皮肉にも、その呼称とは違い、作物の実りや土地の肥沃さに無縁の存在であることを、君が感じ取ってくれているのであれば、そこから一気に、僕は『春の雪』と題された、この四部作の第一巻へと歩を進めることが叶うのであるが、さて君の準備は、いかがであろう。

最初に、ひどく単純な質問である。君は雪が、そもそも春に降るものだと思っているのか知らん、それとも、ごく普通に、冬に降るものだと思っているのか知らん。もちろん、雪は自然現象(natural phenomen)として見れば春にも降るし、冬にも降る。それどころか、条件(=環境)次第では秋にも降るし、夏にも降る。でも、やっぱり雪は冬の景物だよね、と君が感じ入り、決め付けているのであれば、きっと君は典型的な、現代人の中の現代人であって、君のカレンダーでは当然のように、冬が12月に始まって、翌年の2月に終わることになっているに違いない。ただし、それは君が目下、この国の制度化しているカレンダー(グレゴリオ暦)に則り、従っているだけの話であって、例えば天文学では、冬は冬至(12月21日頃)に始まり、春分(3月20日頃)まで続くのがルールである。

要するに、このようにして文化現象(cultural phenomen)として捉えれば、あるいは、それを科学現象(scientific phenomen)に置き換え、別の見方をすれば、たちまち雪は冬に降るとは限らないものに、姿を変える訳であり、その代表例が実は、この国で150年ばかり前まで施行されていた、いわゆる「旧暦」(⇔新暦)なのである。と書き継ぐと、いかにも仰々しい物言いとなり、気が引けるけれども、こちらのカレンダーでは、まさしく春は新年(1月1日)と共に始まって、3月まで続き、その翌月(4月)以降は夏となるのがルールである。であるから、その際の春や夏は、現在のカレンダーよりも、ほぼ一月遅れで巡って来ることになり、このカレンダーを踏まえれば、大きく雪は冬に降る、文字どおりの「冬の雪」と、その後、年を越して降り出す「春の雪」とに分かれることになる。

とりわけ、そのような「春の雪」の中でも、この国で古来、瑞兆と見なされてきたのは新年早々、年頭に降る雪であり、例えば『万葉集』には奈良時代に、そのような「春の雪」が降ったことを祝い、寿(ことほ=言祝)ぐ、幾つもの歌が遺されている。その中から、さしあたり君には有名な、大伴家持(おおとも・の・やかもち)の一首を挙げておけば充分であろう。この歌自体は、もともと天平宝字三年(759年)の「春正月一日」に、彼が当時、国守をしていた因幡(いなは→いなば)で詠まれたものであり、この国庁跡は今でも鳥取県(鳥取市)に、その名(国府町)を留めているが、そこで長官として宴を開き、部下たちを饗応した際の歌が次の一首である。ちなみに、君も知っての通り、この歌で『万葉集』の現存する、4500首余りの歌は壮大な、その天皇賛歌の幕を閉じることになる。

 

  新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家余其騰

  新(あらた)しき 年の始めの 初春(はつはる)の 今日(けふ)降る雪の いや頻(し)け吉事(よごと)

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