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雅(みやび)について(承前)――「教養」の来た道(366) 天野雅郎

前回は雅(みやび)について、僕は君に三島由紀夫(みしま・ゆきお)つながりの話を、あれやこれや、持ち出したのであるけれども、そこに「みやび」という語の影も形も......と言うと、いささか大袈裟(おおげさ)であるが、いちばん最後の「古今集と新古今集」の引用以外、この語は姿を見せていない。でも、それが僕に言わせれば、そもそも雅(みやび)の「みやび」たる所以(ゆえん)であり、例えば『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を引くと、そこには「①宮廷風で上品なこと。都会風であること。また、そのさま。洗練された風雅。優美」という語釈の後、さらに「②恋の情趣を解し、洗練された恋の〔、〕ふるまいをすること。③すぐれた風采(ふうさい)。りっぱな姿」という語釈が並んでいる。ただし、これらは言ってみれば、ただ目に見える、雅(みやび)に過ぎない。

ところで、もともと雅(みやび)は都(みやこ)という語と、ほぼ同時期に生まれた、同起源の語であるから、そこには予め、すでに宮(みや)が前提として存在している。とは言っても、このようにして宮(みや=御屋)が都(みやこ)となり、そこに住み、暮らす、人の態度や、その振る舞い――おまけに、その容姿までもが雅(みやび)という語で表現されるようになるためには、当然、それ相応の時間が必要であったに違いなく、君や僕の住む、この「日本」という国は徐々に、そのような時間を介して形成されたことになる訳である。であるから、君や僕が現在、仮に日本文学史や日本芸能史や、あるいは日本宗教史や日本思想史に興味があるのであれば、さしあたり君や僕は以下に掲げる、白川静(しらかわ・しずか)の『字訓』(1987年、平凡社)の語釈を、踏まえざるをえない。

 

みや〔宮〕

「み」は霊的なものに関して用いる接頭語。「や」は屋。神の住むところの神殿をいう。のち宮殿の意となり、皇族の敬称に用い、また貴顕の人の居るところをいう。〔中略〕宮は〔、〕もと神霊の居るところより、のち貴人の住居をいう語となった。

 

みやこ〔京・都〕

宮のあるところ。皇居のある地をいう。「ひな」に対する語。〔紀〕には都鄙・朝野・華裔・華夷を〔、〕みな「みやこひな」とよむ。「みや」は本来は神霊の居るところで、「みやこ」は「みや」が〔、〕すでに皇室の意となったのちの語である。

 

みやび〔都・雅〕

「みやぶ」(上二段)の名詞形。「みや」は宮・宮廷。「鄙(ひな)び」に対する語。また「みやこぶ」という上二段の動詞がある。都風の優雅な〔、〕ようすをいい、そのさまを「みやびか」「みやびやか」、その人を「みやびを」という。

 

さて、このようにして振り返ると、そもそも「神霊」(=神+霊)や、その類(たぐい=比)の、ある種、人間ではない......人間ならざる、超人間的(非人間的?)な存在の居住する場所が、まず「みや」と名づけられ、それが次に、今度は「神殿」ではなく「宮殿」を指し示すことになり、この国で言えば、それが「皇居」や「皇室」や「皇族」をも意味するようになる時代へと、変化をしていったことが分かる。その意味において、このような変化を君や僕は、いわゆる「日本神話」(=記紀神話)という形で追体験することが出来るであろうし、それは神の居住地であったものが人の居住地へと、ひいては人々の居住地へと、おもむろに姿を変え、それに伴って神話も、もはや神話ではなく、むしろ伝説や歴史の領域へと引き摺(ず)り降ろされ、そこで身を持ち崩していくことになった次第。

ちなみに、例の「日本文学小史」において三島由紀夫が、その冒頭に「神人分離の文化意志」としての『古事記』の章を置いていたのも、まったく事態は同様である。そして、その中でも特に、いわゆる倭建(やまと・たける)の命(みこと=尊)を三島由紀夫が取り上げ、これを「本来の神的天皇なる倭建命と、その父にして人間的天皇なる景行〔けいこう〕天皇との、あたかも一体不二なる関係と、同時に〔、〕そこに生ずる憎悪愛(アムビヴァレンツ)が、象徴的に語られている」物語として位置づけていたのは興味深い。――「命は神的天皇であり、純粋天皇であった。景行帝は人間天皇であり、統治的天皇であった。詩と暴力は〔、〕つねに前者に源し、前者に属していた。従って当然、貶黜(へんちゅつ)の憂目(うきめ)を負い、戦野に死し、その魂は白鳥となって昇天するのだった」。

もちろん、このような言い回しの背後に、三島由紀夫は古代のみならず、中世をも近世をも、また、近代をも現代をも、その射程に収めている。と言うよりも、たとい「千年前に書かれた作品でも、それが読まれているあいだは、容赦なく現代の一定の時間を占有する」のが「文学作品」である、という考え方を三島由紀夫はしていて、そこから「文学作品」は、それが「古典であろうが近代文学であろうが〔中略〕どうしても〔、〕そこをくぐり抜けなければならぬ藪(やぶ)」のごときものに比せられてもいる。だから、そのように「時間をかけて〔、〕くぐり抜けないことには、その形の美しさも決して掌握できないというのが、時間芸術の特色である。この時間ということが、体験の質に関わってくる。なぜなら、われわれが〔、〕それを読んだ時間は、まぎれもない現代の時間だからである」。

と、ここまで話が来れば、彼が「文化意志」と呼んでいるものも、うっすら君には、そのイメージが浮かび上がってくるのではあるまいか。この語自体は、あまり君には馴染みのない語であろうし、その成り立ちを喋り出すと、けっこう難しい話になって、例えばヘーゲルやショーペンハウアーや、あるいはニーチェの名まで持ち出さざるをえなくなるから......止めておくが、そもそも「文化とは、文化内成員の、ものの考え方、感じ方、生き方、審美観の〔、〕すべてを、無意識裡にすら支配し、しかも空気や水のように〔、〕その文化共同体の必需品になり、ふだんは空気や水の有難味を意識せずに〔、〕ぞんざいに用いているものが、それなしには死なねばならぬ〔、〕という危機の発見に及んで、強く成員の行動を規定し、その行動を様式化するところのものである」と三島由紀夫は述べている。

要するに、このようにして「文化」には、それぞれの時代に、それぞれの時代の特徴を産み出す「端緒となった〔、〕意志的な作品群」が、個人の次元においても集団の次元においても、存在しているのであり、その筆頭が先刻、例に挙げた『古事記』や、それに続く『万葉集』や『懐風藻』や、何よりも『古今和歌集』であった訳である。そして、その意図において、三島由紀夫の『日本文学小史』は古代から中世へと、近世から近代へと、その「知的運命」を辿らざるをえない性格のものであった。このことを、たまたま先日、僕は長谷川泉(はせがわ・いずみ)の『三島由紀夫の知的運命』(1994年、至文堂)を読んでいて、あらためて痛感したので、この点も君に報告を済ませておこう。――「日本人の今後の知的運命は、戦後を〔、〕どのように考えるか〔、〕ということによって定まる」。

しかも、それは長谷川泉に言わせれば、より「巨視的には明治維新以後の日本の当面した近代を、どのような視点から捉えるか〔、〕ということにも関連する」。「近代の問いなおしは、日本人のすべてにとって痛切な問題である。戦後が問題とされる場合に、その起点は、日本の近代の構造そのものであるから、近代そのものへの焦点のきめかたが問題となる。日本人の知的運命は、そのことと深くかかわっている」。......と、このような文面に目を通しながら、僕は昨年が「明治維新」150年であったこと、また、さらに来年は「戦後」75年を迎えること、そして、その10年後には「もはや戦後ではない」と『経済白書』は言い切ったこと、それにも拘らず、その「戦後」を否定し、三島由紀夫が自決を遂げてから来年で、ちょうど50年であること、これらのことを、ぼんやり想い起こした所である。

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