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浪漫派音楽論(第四話)――「教養」の来た道(78) 天野雅郎

前回、僕は吉田秀和(よしだ・ひでかず)の「シューマン論」を引き合いに出し、彼の全集の第2巻から、1950年(昭和25年)の「ローベルト・シューマン」と1973年(昭和48年)の「シューマン」の、二篇の評論を君に紹介しておいた。なお、評論は批評と言い換えても、まったく構わないし、評論にしても批評にしても、あるいは批判にしても、その起源を遡れば、例えば英語のcriticismに辿り着く点は同じであって、そこから日本語に絡(から)み付く、あれやこれやの陰影(ニュアンス)に気を配り、いろいろ区別(差別?)をするよりも、むしろ英語のcriticismがギリシア語のkrinein(分ける→決める)という動詞に由来し、そこからcrisis(危機)やcriterion(基準)やcritic(評論家・批評家)という語が導き出されたことを知る方が、ずっと有意義なのではあるまいか。

ところで、この『吉田秀和全集』の第2巻には、さきほどの二篇と並んで、前者と同年に『フィルハーモニー』(アポロ出版社)に掲載された「シューマンのピアノ協奏曲をめぐって」と題された、もう一つの「シューマン論」も収められている。そして、そこには興味深いことに、彼が「その頃」......と言ったのは、おそらく1933年(昭和8年)の年の瀬か、それとも翌年の年頭か、いずれにしても、まだ「結婚したばかりの詩人の中原中也がどこからか借りて来た」、何と「シューマンのピアノ協奏曲」の「レコード」(いわゆる、SPレコード!)を聴きながら、お互いに感想を、一方は口に出し、一方は胸に秘め、それぞれがシューマンの「ピアノ協奏曲」(コンチェルト)と向かい合っていた折の思い出を、次のような淡々とした、それでいて、けっこう激しい筆致で描き出していたのである。

中原は、「なんてむずかしい曲だろう。これは専門家用の音楽だな」と言い言いしながら、それでも根気よく、ひとりで針をとりかえたり、ポータブルのぜんまいをまいたりしながら――中原は、僕が代わろうかというと、俺はいつも自分でまわさないと、レコードをきいた気がしないのだといっていた――最後まできき通した。なるほど、むずかしいといわれると、この曲は何かよそよそしいところがあり、それにピアノと管弦楽がかけ合いながら、何度も何度も、同じようなふし〔ふし→傍点〕をくり返すのが、やや退屈でもあった。「なぜ同じ音楽が、こんなにちがってきこえるのだろうか!」僕はこの時、鋭い気持で、こう思った。そうして、がっかりしながら、何かに向かって腹を立てている自分を感じた。

ちなみに、中原中也(なかはら・ちゅうや)は1907年(明治40年)の生まれであり、吉田秀和よりも6歳の年長である。が、この詩人が数えの31歳の若さで、この世を去るのは1937年(昭和12年)のことであるから、そこから逆算すると、この二人が「シューマンのピアノ協奏曲」に耳を傾けていたのは、その3年前から4年前の話であったことになる。場所は、中原中也が郷里の山口県で遠縁の女性(上野孝子)と結婚し、上京の後、新居を構えていた「花園アパート」(旧:四谷区、現:新宿区)であったはず。この時点で、中原中也は数えの28歳の、直前か直後であったのに対して、吉田秀和の方は数えの22歳になるか、ならないかの頃であり、当時、彼は東京帝国大学(文学部フランス文学科)の学生であり、直接、中原中也からフランス語の個人教授を受けていた間柄でもあった。

ところで、この年――すなわち、中原中也が新婚生活をスタートさせたのと、まったく同じ年(1933年)には、逆に、宮澤賢治(みやざわ・けんじ)が数えの38歳で、その生涯を閉じることになるけれども、宮澤賢治と言えば、ただちに僕は『セロ弾きのゴーシュ』の中で、あの「三毛猫」が主人公のゴーシュに対して、シューマンの『トロイメライ』(原文:トロメライ)の演奏を要求する場面を想い起こすのであるが、さて君は、いかがであろうか? また、この年には宮澤賢治に続いて、わずか一月足らずの間に、宮澤賢治とも交友のあった、あの『遠野物語』(柳田國男)の語り手で、民俗学者の佐々木喜善(ささき・きぜん)や、さらに『武士道』や、あるいは五千円札の肖像としても有名な、新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)が亡くなっている。無論、この三人は全員、岩手県出身である。

閑話休題。このようにして振り返ると、すでに当時、シューマンが一定の日本人には、まさしく「ロマンチック(原文:ロマチック)シューマン」(『セロ弾きのゴーシュ』)という形で、よく知られた存在であったことが分かる。もちろん、これは私たちの国において、シューマンの「ピアノ協奏曲」の初演が1927年(昭和2年)であり、その翌年が「チェロ協奏曲」の初演の年であったことを振り返れば、はなはだ同時代的(contemporary)な現象であったことは疑いがない。もっとも、例えばシューマンの遺作であり、彼の生前には刊行されなかった、もう一つのコンチェルト(「ヴァイオリン協奏曲」)が日本で初演を迎えるのは、この作品がドイツで出版された年(1937年)の翌年のことである。と言うことは、いかに当時、シューマンが私たちの国に受容済みであったのかも明らかであろう。

なお、ついでに私たちの国で、シューマンの交響曲(シンフォニー)が初演された年を拾い上げておくと、もっとも古いのは、どうやら「交響曲第四番」らしく、1926年(大正15年)のことであったらしい。これはシューマンが、もともと妻のクララの誕生日(1841年9月13日)に、彼女の22歳を祝して、贈った曲であったけれども、それを後年(1851年)になってから、シューマンは改訂を施すに及んでいる。そこで、その直前に書かれた「交響曲第三番」と、順番が入れ替わり、現在は「交響曲第四番」と呼ばれている次第。そして、この、通称「ライン」の標題を与えられ、多分、私たちの国でも一番、有名なシューマンのシンフォニー(「交響曲第三番」)が、日本で初演を迎えるのは、大正から昭和へと年号の切り替わった後の、この翌年の、1927年(昭和2年)のことであった。

これ以外、シューマンには二つのシンフォニーが遺されており、それは彼の......言ってみれば「未完成交響曲」である「ツヴィッカウ交響曲」を抜きにすれば、最初の交響曲であり、1841年(天保12年!)に作られ、シューマン自身が標題(「春」)を付けた、例の「交響曲第一番」と、それから5年後(1846年)に書かれ、結果的に「交響曲第二番」として位置づけられている、二つのシンフォニーである。ただし、これらの作品が日本で初演されるのは、何と、はるかに時代が下って、戦後を待たねばならず、それは戦前、中原中也と吉田秀和が東京の冬の空の下でシューマンの「ピアノ交響曲」を聴いていた、あの1933年の年の瀬か、それとも翌年の年頭か、いずれにしても日本が、国際連盟を脱退したり、満州帝国を捏造したり、どんどん戦禍の嵐の中を突き進んでいく、その後の話である。

詳しく言うと、一方の「交響曲第一番」が1949年(昭和24年)になってから、実に108年の時の流れを挿んで、ようやく日本での初演を果たしたのに対し、もう一方の「交響曲第二番」に至っては、その初演は117年後の、1963年(昭和38年)のことである。ちなみに、この二つのシンフォニーは共に、いずれもシューマンの親友で、同じ「ロマン派」の代表的作曲家である、フェリックス・メンデルスゾーンが指揮をして、ライプツィヒの「ゲヴァントハウス」(Gewandhaus=織物組合会館)の管弦楽団によって初演をされたのが、最初である。この楽団は、1743年――私たちの国の年号で言えば、あの徳川吉宗が将軍職を辞する、その2年前(寛保3年)に創設された、世界で最古の、民間のオーケストラであり、それは市民階級が作り、自分たちの力で運営をする、世界で最初の楽団であった。

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