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残暑の、お見舞い(第四信)――「教養」の来た道(88) 天野雅郎

いやはや、これで君への残暑の「お見舞い」も、もう前回で「お仕舞い」(ラスト・ダンス)であろう、と僕は高(たか)を括っていたのであるが、困ったことに今回も、依然として僕は君への、残暑の「お見舞い」の筆を執(と)り続けている始末。なにしろ、すでに今日(9月8日)は暦(=陰暦)の上では、8月15日に当たっており、文字どおりの「十五夜」であったから、いわゆる「お月見」の行事も至る所で、催されているに違いない、とは分かっていても、それが一向に「仲秋(=中秋)の名月」とは感じられない、ほとんど「仲夏の名月」のようであったから、ついつい僕も致し方なく、君への残暑の「お見舞い」を繰り返さざるをえない次第。でも、このようにして立秋を過ぎてから、一月以上も収まらない暑さに対してすら、これを「残暑」(......^^;)と呼ぶのでしょうか?

ところで、もともと「仲秋の名月」にしても「お月見」にしても、その根っ子(roots)を掘り起こすと、それは当然、中国の「仲秋節」に辿り着くことになるのであるが、これが中国において、はっきり公的な祝日として定着するに至るのは、君や僕が想像するほど早くはなく、例えば植木久行(うえき・ひさゆき)の『唐詩歳時記』(1995年、講談社学術文庫)に従えば、それは唐代以降のことであって、どうやら「唐代の半ばになって、しだいに盛んになったのであろう」と推定されている。したがって、ここから陰暦の8月15日(要するに、今日)が節日(漢音→セツジツ、呉音→セチニチ)となり、それに応じた祝賀の行事の数々が行なわれるようになるのは、おそらく宋代のことであり、それが徐々に私たちの国にも、平安時代を通じて持ち込まれることになったのが順序であろう。

もっとも、すでに「お月見」の習慣自体は、平安時代の前期には始まっているし、奈良時代以前に遡っても、例えば『万葉集』には「望月(もちづき)の」という語が、いわゆる枕詞(まくらことば)として使われているから、このような文学表現の母体には、それを産み出す、何らかの宴(うたげ=歌+食)の場が伴われていたに違いない。が、そのような宴の場が世界中、至る所で営まれているのなら、いざ(正しくは、いさ)知らず、これが特異な、ある種の東洋趣味(オリエンタリズム)であった点を振り返れば、このような「お月見」の習慣自体が、もともと中国で生まれ、それが中国文字(すなわち、漢字)によって媒介された、まさしく「漢字文化圏」の産物であったことも、君や僕は忘れてはならず、それは多分、一人の人間にとっても、重要な出自の問題であったはずである。

ちなみに、このような中国伝来の、その意味において、当時の国際社会(international society)の中で生まれた「お月見」とは別に、君は日本という、この地域社会(regional community)の中で育まれた「お月見」があることを、知っていたであろうか? と言ったのは、すでに平安時代から日本人は、このような中国風の「十五夜」と並んで、さらに一月ばかり後の、陰暦の9月13日の月も「十三夜」と称し、この二つを共に、同時に「お月見」として位置づける、独自の習慣を築き上げたからである。そして、とりわけ室町時代以降、この双方の「お月見」が等しく、揃って「月を翫(もてあそ)ぶ」に相応しい、その名の通りの「良夜」であることは、例えば吉田兼好(よしだ・けんこう)の『徒然草』(第239段)にも説かれているし、それは今年で言うと、陽暦の10月6日に当たる。

と言った次第で、僕は再度、やがて一月ばかり後に訪れる、もう一つの「お月見」の夜が来て、その「十三夜」が幸運にも、吉田兼好の評価するような「良夜」(good night→「お休みなさい」?)であったなら、じっくり君に「お月見」の話を、気合(きあい)を入れて聴いて貰(もら)いたい、と願っている。が、その夜が運悪く、曇(くもり←雲)であったり、ことによると雨が降ったりすることも、ない訳ではないので、その時には逆に、これまた『徒然草』の有名な、あの「花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ見るものかは」(第137段)を引き合いに出しながら、春であっても、夏であっても、秋であっても、冬であっても、いつでも月は、そこに厳然として存在しているのであり、それが君や僕の目に、見えるのか、見えないのかは二次的な問題に過ぎないことを、語りたい。

さて、このようにして振り返ると、日本には固有の、独自の「お月見」の習慣も、芽吹いたことになる訳であり、そのような習慣を一般に、私たちは「日本文化」と総称しているけれども、そのような習慣は自然に、君や僕が放っておいても、そこに芽吹いた以上はスクスクと成長し、枝を伸ばし、葉を茂らせる――といった、あまっちょろい代物(しろもの)では、さらさら無い。なぜなら、そもそも文化(culture)とは私たちが、例えば畑や田圃(たんぼ)を耕(たがや←たがえ←たかえ=田返)して、そこに種を蒔き、作物を収穫する、その名の通りの農業(agriculture)と等しく、はなはだ人間的な、言い換えれば、きわめて人為的で人工的な、要するに、不自然(unnatural)この上ない行為なのであって、それを自然(nature)の恩恵のように見なすのは、大間違い(!)であるから。

その意味において、例えば前回、僕が君に紹介した、幸田文(こうだ・あや)の「季節のかたみ」の中にも、いわゆる「水罰」という語が用いられているけれども、そもそも君は、この語を何と読むのであろう。通常、漢字の「水」は音読すれば、漢音でも呉音でも「スイ」となり、訓読すれば「みず」となる。また、同様に「罰」という漢字を、私たちは普段、慣用音で「バツ」と読んでいるが、実は漢音では「ハツ」となり、呉音では「バチ」となる。と言うことは、これらの音を組み合わせることで、この「水罰」という語の読み方も決まってくる。「スイバツ」?「スイハツ」?「スイバチ」?「みずばつ」?「みずはつ」?「みずばち」?  正解は、最後の「みずばち」である。とは言っても、この語を君が、手許の国語辞典で引いても、そこに載っているとは、思えないけれども......。

ただし、この「水罰」という語を僕も、この「季節のかたみ」を読むまでは、まったく知らなかったので、どうか君も、安心して欲しい。でも、このような罰(ばち)という語の使い方は、僕も随分、子供の頃に聞かされた覚えがあるし、僕の郷里の家の前にも、以下の文中に登場する「共同の井戸」は、しっかり存在しており、そこから「手押ポンプ」で水を汲んだ記憶も、残されている。多分、このような経験は幸田文のように、20世紀の初頭に生まれた日本人にとっては、ごく普通の経験であったろうが、例えば僕のように、いわゆる「高度経済成長期」に少年期を送った、1950年代生まれの日本人にとっては、ぎりぎり記憶の中に留まっている光景であり、ましてや君のように、20世紀の末年に生まれた日本人にとっては、とうてい記憶の底にも、眠っていない光景であったに違いない。

 

水づかいについて、私はそう〔、〕ぞんざいじゃないようです。節約型といえるほどではないけれども、無駄はしないという程度です。もっとはっきりいうなら、いつもひとりでに意識して使っているようなのです。これは小さい頃からの〔、〕しつけです。時代のしつけというか、地域のしつけのようでもあり、家庭のしつけでもあったわけで、どこの子も水を粗末にすると、水罰(みずばち)があたる、といって叱られていました。私の育ったのは隅田川の東の村でして、今では都区内ですが当時はまだ田舎〔いなか〕で、水道はきていませんでした。水は各家、または共同の井戸から釣瓶(つるべ)か、手押ポンプで手桶に汲み、それを台所に運びいれて使っていました。ものが水ですから、汲むにも運ぶにも骨が折れます。〔中略〕こんな状況でしたから、誰もが水の有難さと、手に負えぬ始末わるさを〔、〕よくよく知っているし、水は人が製造するものではなくて、天物なのだということを、常に〔、〕わきまえていたのじゃないかと思います。ですから、粗末にするのを戒める意味から、水罰というような言葉もあったのでしょう。

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